日本の音楽の海外での成功の背景を考える
最近はJazz以外の音楽もいろいろ聞くようにしているが、私が日本の音楽業界を見ていて面白いな、昔と違うなと感じる点が2つある(別に網羅的、体系的に見ているわけではないので、それ以外のポイントもたくさんがると思うが)。一つ目は、この10年近く続いているムーブメントで1970-80年代くらいの、日本の当時ニューミュージックと分類されていたような音楽が、City Popと呼ばれて海外の若いリスナーが多くついている、所謂シティーポップブームである。二つ目は、YoasobiとかADOなどのミュージシャンのグローバルでの評価と、彼らが作る音楽のクオリティの高さについてである。
シティポップブームが起こった理由
まず、前者についていえば、なぜ今更50年近く前の日本の音楽が海外の若者に受けているのかといえば、要因はこんな感じらしい。
- そもそも音楽としてのクオリティが非常に高い
- 日本独特の歌謡曲的な要素と、アメリカやイギリスを中心とした洋楽の要素の独特のミックスにオリジナリティがある。一方で、洋楽の要素も入っているため、全く見知らぬ音楽でもなく、耳なじみが良い。
- 歌詞の一部に英語のフレーズが混ざっている事が多いので、その部分だけなんとなく一緒に歌えて、盛り上がれる。
- 日本国内でしか殆ど聞かれてこなかったので、そもそもこれまで聞いたことがない。
この4点くらいがよく言われていることらしい。このシティポップブームの象徴的な存在が、私の世代の人間からすれば、中学生くらいの頃に聞いていた山下達郎さんであり、その夫人でもある竹内まりやさんである。シティポップブームの中でその界隈のファンであれば誰でも知っている代表曲が、日本でそれ程ヒットした分けではおそらくない竹内まりあさんのプラスティックラブである。ここ何年か、非常に幸運にも山下達郎さんのコンサートに何度か伺う機会があり、MCで山下さんが話していたのであるが、数十年前に日本で出したLPレコードが海外の中古マーケット市場でびっくりするような値段で取引されており、それは本意ではないと過去の作品のLPリマスター版を発売すれば、その年に最も売れたLPレコードになってしまうという、本人も不思議な現象になっているそうである。(シティポップについてもっと詳しく知りたい方はこちら)
シティポップが海外でこれだけ人気になっている理由については、私のどこかで読んだ仮説が正しかったとして、重要な点は①クオリティが高い、②ユニーク・オリジナリティがある、③親しみが持てる、④新しいの4点が要素としてピックアップできると思う。この4つの要素はどれがかけても現在のシティポップ的なブームにはならないであろう。例えば、どんなに②~④の要素が整っていたとしても、①のクオリティが無ければ高い評価を得ることは難しいであろうし、①~③の要素が揃っていたとしても、昔から知っている音楽であれば「懐メロ」的な扱いになってしまう。そして、今回のシティポップブームで最も重要な点は、④で、日本人にとっては「懐メロ」的にどこかで聞いたことがある(カラオケでおじさま、おばさまが歌っていたとか)音楽が、海外のリスナーに取っては全く交わることが無かった未知のものであったというのが理由であるのだと思う。
最新のJ-Popが海外で人気な理由
時代は流れて、70年代から一気に現在の日本の音楽シーン(の一部)に目を向けると、先に挙げたYoasobiであるとか、ADO、藤井風などの日本のミュージシャンの音楽が世界中で高い支持を得ている。オジサンが重い腰を上げて彼らの音楽を聞いてみると、びっくりするほどミュージシャンとしての技術も高いし、作る音楽のクオリティも非常に高いものがある。
では、なぜ彼らの音楽は、日本のみならず海外でも高く評価されるのであろうか?私の考えはこんな感じである。
- そもそも、音楽としてのクオリティが非常に高い
- 日本のポップミュージックの歴史に根ざした部分も多分にあり、海外の音楽とは異なるオリジナリティがある
- 動画配信サービスなどで、日本のアニメが世界中で視聴されており、その主題歌などで使われることで、広いオーディエンスにアクセスすることが出来る
- そもそも、音楽活動がボーカロイド作品や、カバー配信(歌ってみたコンテンツのYoutube配信等)から始まっているケースが多く、そもそも音楽活動のターゲットを国内向けと最初から考えていない
などが上げられるのではないかと思う。これが正しいのかどうかは分からないが、いろいろなものを読んだり、Yotubeとかの動画のコメントを見たり、海外のリアクション動画を見ていたりすると、おそらくそれ程的外れな分析ではないと思う。
シティポップの時とは違い、ここで紹介した4要素がすべて揃わないと、海外で評価されないという分けではなく、この内2-3個揃えばイケそうな気がするが、日本の若い才能がどんどん日本の枠を飛び越えて、グローバルに活躍する場を得ていることに対しては、本当に素晴らしいことだと思い、ビジネス界も遅れを取らずにキャッチアップしていかなければいけないと思う今日この頃である。
日本のミュージシャンが海外で評価されるロジックから、日本企業のグローバルマーケティングを考える
と、長々と、私が気になっている日本のミュージックシーンの現象について書いてきたのには、実はこの動きの中に、現代のマーケティングの非常に重要な教訓がいくつも含まれていると思うからである。
もっと思いつくかもしれないが、現段階で、我々マーケターがこの2つの現象から学ぶことが出来ると私が思うポイントは次の3点である。
- グローバル
- オリジナリティ
- スクリーニング
グローバル市場の規模では日本のニッチも巨大になる
まず、絶対に間違いないと思うポイントは、グローバルで評価されることによるマーケットの拡大のインパクトである。ここで重要なのは、日本のこれらの音楽がK-Popのように必ずしも海外のメインストリームの音楽業界でヒットチャートのトップの常連として位置付けられているわけではなく、少し変わった音楽を聞きたいというマニアや、日本のアニメが好きというようなファン層というある意味ニッチ(ニッチというには日本のアニメは大きすぎるのかもしれないが)マーケットに支持されていることである。K-PopのBTSやBlack Pinkなどのように、米国の若者に聞けばほぼ知らない人はいないという状況とはちょっと異なる位置づけであろうと思われる。
しかし、Youtubeの再生回数などを見る限り、そんなニッチマーケットであっても、ターゲット市場を日本のみからGlobalに広げた瞬間にそのマーケットの規模は巨大になる。例えば、人口の1%に指示されるようなニッチコンテンツでもそのターゲットを1億人の日本にするのか、70億人のグローバルマーケットにするのかで、70倍も市場規模は大きくなるという単純計算になるからである。もちろん実際には、ターゲットが70倍になったからと言って、70億人に同等の購買力があるわけではないので、金額的な市場規模が70倍になるわけではないが。
以前に、ゲーム業界の話で、日本企業の多くは日本でヒットしたタイトルを海外展開するという順番で考えるのに対して、中国、韓国という一部の例外を除いて、それ以外の国の企業は最初からグローバル展開前提で商品開発をしているという話をした。なぜなら、その方が市場規模が大きいのが明らかだし、日本は一応世界第3~5位の経済規模を誇る国内市場を持っているのに対して、特にヨーロッパの小国などでは、国内市場が小さすぎて、国内向けのビジネスなど考えるのが困難である。その意味で日本は中途半端に大きな国内市場を持っていることが足かせになっていると私は思っているが、その枠を取っ払ってしまうことのインパクトというのは、論理的に考えれば分かることだし、その成功例として若い日本の音楽家や、結果的に海外のユーザーに発見されたシティポップ系のミュージシャンをとらえることができると思う。
どんなにニッチなニーズであっても、視点をグローバルに向けることさえできれば、展望が開ける可能性が高くなるのである。
オリジナリティのない商品は継続的なユーザー評価は得られない
コンテンツがサブスクリプション課金になり、アニメや漫画なども昔のように週1回の最新話の更新を楽しみに気長に待つなどという悠長な消費のされ方ではなく、多くのコンテンツが一気見されて、大量のコンテンツが消費されるようになってしまったり、ゲームのようにFree to Playが主流になり、とりあえずゲームを無料でインストールしてもらって、ユーザーは大量のゲームの中から面白いと思ったもののみ長くPlayして、課金もするというように、昔と違って、多くのビジネスにおいて大量に試して、良いもののみにお金を払うという世界が、あらゆるビジネスシーンで一般的になってきている。
さらには、レビューサイトや、SNS等でユーザー発信の情報は世の中に一気に共有、拡散されるため、良いものと悪いもの、面白いものと面白くないものの選別が物凄いスピードで広まっていく状況も日に日に強くなっていっているように思う。
このように世の中あらゆるものが大量のお試しと良いものだけに課金という世界に急速になっていっている分けであるが、このようなビジネス環境で生き残っていけるものとはどのようなものなのであろうか?
そもそも、インターネットがこれほど発展していなかった世界において成り立っていたビジネスチャンスで、いま急速に衰退しているお金の儲け方が、サービス・商品の提供側と購入者との間の情報の非対称性を利用した方法である。情報の非対称性というのは分かりやすく言えば、売り手と買い手の間の情報格差、GAPを活用したビジネスである。
ゲームビジネスの家庭用ゲーム機のゲームソフトのマーケティングを例に考えてみよう。インターネット登場前にユーザーがどのゲームソフトを購入する際の判断基準というのは、主にゲーム雑誌の記事と口コミであった。日本でいえばゲーム雑誌の代表格は「ファミ通」であり、口コミの代表格は学校で友達が面白いと言っているかどうかみたいな話である。まず、ゲーム雑誌についていえば、そもそも数が限られているので、ゲーム会社のマーケターやPR担当者とゲーム雑誌の記者というのは、人間的なリレーションがあり、その関係性の中である程度情報をコントロールすることが、完全とはいえないが、多少は可能であることが多かった(もちろん、単純にお金で買収するというような話ではない)。
一方、口コミについては、ゲーム会社が内容をコントロールすることは出来ないが、〇〇小学校でつまらないと広まってしまったゲームの情報が、隣町の□□小学校にまで伝達されるスピードというのは現代に比べれば格段に遅かった。
その様な状況の中で、万が一どう見てもつまらないゲームを売らなければいけなくなってしまったマーケティングの担当者が考える戦術とはどのようなものであろうか?ハッキリ言ってしまえば、つまらないという評判が広がりきる前に売れるだけ売ってしまおうという事であろう。なぜなら、ゲームソフトというのは、商品を購入して、家に持って帰って遊んでみるまでは、どれだけパッケージをじっくり見ても面白いかどうかが分からないからである。つまり、売り手側の企業はつまらないゲームだと知っているが、買い手のユーザーは購入前にはそれがわからないという情報の格差があり、それを利用して収益の機会を得ようとするわけである(ちなみに、この例は理論上の話をしているのであって、私が所属していた会社がこのような事ばかり考えている分けではないので、誤解なきよう)。
昔のゲームソフトの例を現代の若い読者の方は、「そんな平和な時代があったのか!」と驚くであろうが、まさしくその通りで、現在のビジネス環境では、このような情報GAPでお金を儲けるなどというアイディアはは到底成立しないか、少なくても長続きはしない。なぜなら、多くのものが「お試し」できる環境にあるし、それが無かったとしても、ネットで探せば商品、サービスを利用した人の評判・レビューの情報がたちどころに探せるからである。
では、このようなビジネス環境において、商品・サービスに求められることとは何であろうか?それが私は「オリジナリティ」であると思っている。先のシティポップと、現在のJ Popの音楽でいえば、双方とも西洋や他のアジアとは異なる、ある意味日本語という閉じた文化圏の島国として他の文化世界との障壁が高かった日本というある意味特殊な文化圏の閉じた世界において育まれたバックグラウンドが、他の国の音楽にはないオリジナリティとして捉えられているのである。
ニッチかもしれないが、日本が世界的にポジションを持っているアニメコンテンツなども、おそらく先に挙げた音楽の2つの例と似たような状況にあるのであろう。
これをビジネスの世界に置き換えれば、オリジナリティ=差別化ということになる。現代のビジネス環境において、本質的に商品・サービスの購入者に価値を評価してもらえないものというのは基本的には長期的に利益を上げることは出来ない。なぜなら、誰でも提供出来るようなコモディティ商品は確実に評価が共有され、価格競争に巻き込まれ、利益幅を削り続けなければ売上を確保出来ないからである。若しくは、他に良い商品・サービスが存在しているのであれば、より良いものに乗り換えられてしまうであろう。
これが対象とする市場がグローバルともなれば、当然競合企業の数も市場規模の大きさ同様に増えてくるのでよほど考えないと差別化出来るような商品・サービスにならない。商品・サービスの提供側はこの点をより深く、シビアに考えなければ、事業の成功などありえないのである。
プロの目によるスクリーニングが多くの可能性を摘んでいるかもしれない
最後のポイントはスクリーニングである。といっても、分かりにくいと思うので、もう少し詳しく説明しよう。シティポップとYoasobiの中心人物のAyase氏やADOのようなミュージシャンの共通点というのは、誰かがプロデュースしたり、売り込んだしして世に出たのではなく、Youtube やニコニコ動画のような動画コミュニティの中で、ユーザーにいつの間にか発見され、それに賛同する人が自然発生的に増えたことによって、世に出てきた、認知されてきたという側面が強い。
映像コンテンツでいえば、この対局にあるのが、平成時代までの映像ビジネスの代表格であるTVと映画である。YoutubeとTV・映画の間にあるのがNetflixなどのような動画のサブスクリプションサービスであろう。
では、Yotube→Netflix→TV・映画の順番で変化するものとは何であろう。私は「スクリーニング」という概念であると考えている。まず、Youtube&Netflixとテレビ・映画で異なる点とは何であろう?それは「枠の数」である。TVというのは基本的に1チャンネル分の放送電波枠を国等から委託され、その枠の24時間という有限資源にどのようなコンテンツのラインナップを並べるのかというのを考えるのが最大の仕事である。これに対して、Netflixのようなサブスクリプション動画配信サービスというのは、この24時間という放送枠の制限がない。このため、コンテンツの量は理論上どれだけ増やしても、ユーザーがどのコンテンツを視聴するのかはユーザー側の選択に依存することになる。この意味ではTVとは全く異なると言える。一方で、共通しているのは、コンテンツのラインナップとして何を並べるのかの意思決定はサービスの提供者側が決定しているという点である。
これに対して、Youtubeというのは、TV、Netflixに存在した2つの制限が完全に取り払われたプラットフォームである。つまり、放送枠のようなコンテンツ数の制限はほぼ無限にあり、さらにどのようなコンテンツをのせるかはYoutubeの規約に反しない限りどんなものでもコンテンツクリエーターが決定し、自己の費用で制作し掲載することが出来る。つまり、サービスの提供者は掲載するコンテンツの内容やクオリティに対して基本的に何らかの意図を働かせることは非常に少ない。
つまり、Youtubeというプラットフォームは、枠が無限であることと、そこに掲載するコンテンツの制作・買い付けに関わらないことという2つの条件が揃ったことによって、あらゆるコンテンツを選択することなく掲載する場になっているわけである。私はこれを「スクリーニング」と読んでいる。
Youtube以前のコンテンツビジネスというのは、消費者に届く前のどこかの段階で、必ず誰かの目や耳でスクリーニングが行われていた。それが音楽レーベルのプロデューサーを始めた制作メンバーであったり、番組の編成や制作チームに属するTV局の関係者であったり、Netflixのようなサブスクリプション動画配信サービスのコンテンツ制作・買い付け担当者であったりと可能性は様々である。しかし、間違いないのは、どこかの誰かが、「これは良い。これは悪い。」「これは放送・掲載・販売する。これはしない。」というような意思決定をされたうえで、世の中に届くような仕組みであった。もちろん、プロフェッショナルとして仕事をしている人たちがその様な価値判断をしているので、判断基準であるとか、クオリティ評価の確度などは素人が行うよりも確かであるのかもしれない。その意味では、有象無象の中から良いものを選ぶガイドとしての役割としては価値があるのかもしれない。しかし同時にそれは、そのスクリーニングを行う人のお眼鏡にかなうものである必要があるのも事実であり、その評価が100%正しいとも限らないし、世の中のニーズに合致しているとも限らない。また、リソースの制約があるため、網羅性もない。
しかし、Youtubeのようなプラットフォームが出現したことによって、どこかのプロフェッショナルによるスクリーニングを経ることなくコンテンツが制作者・発信者からダイレクトに消費者に届けられるというルートが出てきてしまった。もちろん、大量のコンテンツの中から、コンテンツが発見されるかどうかのハードルはどんどん高くなっている。しかし、Youtubeのようなプロットフォームには何十億人というユーザーがいるため、どんなにニッチなニーズのコンテンツであっても、求めているユーザーがいる可能性が高く、そのニッチな市場の中で相対的に高いクオリティのコンテンツはかなりの確率で発見され、その界隈で評価され、さらにニーズを取り込んで視聴者を獲得していくというサイクルに乗ることができるような仕組みになっている。シティポップとか、Yoasobi、ADOのような音楽はこのようなサイクルの中でグローバル規模で視聴者・ファンを獲得していったのである。
私はこのサイクルは非常にインターネット的で、面白いと思っている。そして、このようなサイクルはビジネス、マーケティングの世界にも応用すべきポイントであると思う。このような視点で考えれば、これまで培われてきたビジネスの手法、特に伝統的なマーケティングの手法というのは、消費者の目に触れる前にどれだけ正しく、精度高くスクリーニングをするのかという技術を構築してきたのだと思う。経営学などでも「選択と集中」みたいなことがよく言われるように、無駄なこと、やるべきでないこと、儲からないことをどれだけ排除していくのかに重点が置かれてきた。
しかし、インターネットの世界の前提というのは、それを決めるのは企業ではなくて、ユーザーであるという事である。どんなに綿密りリサーチしてもユーザーの正しいニーズを隅々まで理解することは不可能である。寧ろ、ニッチなニーズというのは、真面目にリサーチをすると市場が小さなものと判断され、やるべきではないもの、撤退すべきものと判断されてしまいがちである。もちろん、これまでの伝統的なマーケティング手法で培われてきた方法論を使えば、市場が大きなビジネスチャンスをつかむことは出来るかもしれない。しかし。それではおそらくシティポップとか、日本のミュージシャンのグローバル進出などは起こらなかった可能性は非常に高い。おそらく、現在の状況になる以前はニーズ自体が顕在化していなかったため、リサーチしてもニーズを発見できていなかった可能性が高いからである。このように考えると、スクリーニングというプロセスは、いろいろなものの可能性の芽を積んでしまっているプロセスであると言い換えることが出来るのではないかと思っている。何と勿体ないことなのだろうかと思わずにはいられないわけである。
マーケティングのグローバル展開の根本的な考え方を変えるべきなのでは?
このように現在のコンテンツビジネスを見ていると、インターネットやSNS、Youtubeのようなユーザー発信のコンテンツプラットフォームが広がる現在のビジネス環境において、それ以前の環境でビジネスをしてきた30代以上のビジネスパーソンが学生時代や仕事をし始めて学んできた常識が本当に通じるのかというのは結構疑わしい。グローバル・オリジナリティ、スクリーニング(なし)のキーワードにそぐわないビジネスというのは今後どんどん拡大のチャンスを失っていくのではないかと思われる。もちろん一次的にこの3つの要素が完全に機能する前段階の過渡期的なビジネスとして収益を得られる可能性はある。日本のネットビジネスのタイムマシーン戦略(米国等で流行ったビジネスモデルを海外企業が日本進出前に日本国内向けに展開する)など、日本と海外市場の情報GAPを活用した典型的な事例である。しかし、このようなビジネス手法はビジネスのグローバル競争化とそれに付随する規模の経済性の前に遅かれ早かれポジションを失う可能性が著しく高い。GAFAの企業群と、日本のネットビジネス企業の時価総額の違いを見てもその事はどう考えても明らかである。
このように考えれば、やはり特に日本企業で働いている多くの人は、ビジネスに対する考え方を根本的に変えていく必要があるのではないか?日本市場向けに、日本の消費者が好みそうなものを目利きする技術など、遅かれ早かれ技術として陳腐化していくことは目に見えている。日本の若者が世界に羽ばたいているのをみて、そして、そのプロセスに私のような世代のオジサンのスキルが殆ど関与出来ていなさそうなことを見ていて、つくづくその様に思う今日この頃である。