基礎科学の思考法からみるイノベーションの起こし方

AI機械学習の源流の理論を構築した日本人

最近のマイブームのExtreme Scienceから、もう一つ興味深かった先生のお話しをご紹介したい。今回取り上げるのは、情報幾何学という新しい数学の分野を構築された甘利俊一先生である。正直、大学受験以降は、経済学で利用する微分・積分くらいしかやっていないし、それも30年前に卒業してしまったので、はっきり言って、数理論的な内容からは先生の凄さは全く理解できない。

ただ、2024年のノーベル物理学賞が「人工ニューラルネットワークによる機械学習を可能にする基礎的な発見と発明」で2名の学者に授与されたそうなのだが、この二人の業績の基となるアイディアは、甘利先生が20年以上も前に発表したアイディアがベースとなっているそうで、いわば現在のAI、機械学習という最もHotな事業分野の基礎的な理論の構築者の重要な一人であるという凄い先生だそうである。ちなみに、インタビューアー役の茂木健一郎氏は、敬意を表して番組で初めてネクタイを締めて登場し、「天才」という言葉を随所に連発されていた。

というわけで、先生の専門分野の話は全く説明できないので、ご興味がある方はご自身で調べていただきたいと思うが、1時間強のお話を聞いて、このような究極のクリエイティビティを持つ人の話というのは、門外漢の人間にとっても、参考になる話が満載であったので、今回も2点ほど皆さんにご紹介したい。

クリエイティブなアイディアを産む3つのステップ

一つ目に、興味深く、ビジネスにもつながると思ったのは、先生の仕事のスタイルというか、新しいアイディア、概念を生み出すための方法についての話である。先生ご自身がまとめたのではなく、私が話を聞いて勝手に整理すると以下のようになると思う。

  • 環境の整備
  • ゼロいちを生み出す
  • 詳細化・モデル化

環境の整備

まず、先生が重要だと仰っている1つ目のポイントは、仕事をする環境をどのように整えるのかということである。先生は、「自由闊達に、好きなことをやる」と表現されていたのだが、要するに何か新しいものを生み出すには当然相応のパワーが必要なのであるから、自分の時間なり、労力なりをそこに注ぎ込む価値があると自分で思える「好きなこと」をやるのがまず重要であるということである。別に、特に珍しい意見でもなんでもないが、やはり重要なことであると思う。

しかし、ここからが私が共感するところなのであるが、先生が強調されていたのが、「自由に好きなことをする環境を自分で作る」ことが重要であるということである。残念ながら人間は様々な意味で平等ではない。生まれ持った能力や、家庭環境や周囲の環境など、私たちの人生には自分のおかれる環境を定義する様々な所与の条件が存在するのは事実である。私個人は、自分が育った環境に大人になって改めて感謝をしているし、上を見ればきりがないが、どちらかといえば恵まれた環境でこれまで生きてこられたと感じている。

ただ、日々のニュースやSNSでの話題を見ていると、人間というのは現状の問題の原因を環境の要因とし、自分のコントロール外のものと定義して、自己の努力の範囲外のものとして客体化してしまうことが多いように思う。もちろん、すぐに変えられること、簡単には変えられないこと、一生変えられないことと問題は様々であるが、私が先生に共感し、重要だと思うのは、自分が望む環境は与えられるものではなく、自分で作る努力をする対象であると考えていることである。以前、人材育成のパートで、「楽しく働く」ことの重要性と、その環境を作るために私がこの25年間にやってきたことを書いたが、そのようなスタンスが重要であるということを先生は仰っているのだと思う。

日本もだんだんそのようになってきそうな感じがしているが、アメリカやヨーロッパの政治の2極化などを見ていると、極端な貧富の格差の拡大による環境の固定化、分かりやすく言えば富める者はますます富み、貧しいものはますます貧しくなる状況にはやはり問題があるのだろうし、個人の努力だけではどうしようもないことはあるのは事実であろう。でも、どんな状況におかれても、自分がおかれている環境というのは、自分で作るものだという意識は常に持っていることが大事なのではないかと改めて思う。

なお、この環境整備については、マネジメント側の視点では、どのように組織において個々のメンバーが好きなことを自由にできる環境を整備できるようにするのかに配慮することが重要であると思う。この点について、甘利先生と理化学研究所で一緒に仕事をした経験のある茂木氏の話が参考になる。先生は、チームメンバーの自由と個性を尊重するスタイルのチームマネジメントを重視されていたということである。もちろん企業という組織は収益をあげるため、また効率よく運用するためにルールと管理が必要なことは間違いない。ただ、管理と効率ではおそらく新しいアイディアは産まれてこない。そこには、各メンバーが自分で好きなことを考え、実践する環境がなければならない。要は、自由と個性という「遊び(余地)」が必要だということだ。企業によっては、〇%ルールみたいな形で、業務時間の一定割合を自己の好きなテーマの業務に使うことができるみたいなことをしている企業もあるが、そのような「遊び」をどのように企業に組み込んでいくのかというのは、大変難しいテーマである。「効率」と「遊び」のバランスをどのようにとるのかについて、是非考えていただければと思う。

ゼロいちを生み出す

環境を整えたら、次はいよいよ具体的なアイディアを考えるステージである。甘利先生は、この点について何段階のステップに分けて説明されている。

第一段階は、「大風呂敷を広げる」ところから始めるということである。先生の場合は、情報理論と幾何学を組み合わせると、情報の体系が構造化でき、脳科学、AIをはじめ様々な分野に応用できる理論体系が出来上がるのではないかといった壮大なアイディアをまず考えるところがスタート地点であったそうだ(素人理解なので、間違っているかもしれません)。このような考え方は実はGoogleなどでもよく言われることで、Googleが考える「イノベーションの9つの柱」というのがあるのだが、そのうちの一つに「10X」というものがある。分かりやすくいうと、10%改善するアイディアを考えてもイノベーションは産まれないが、今の事業を10倍にするようなアイディアを考えようとするとイノベーションは産まれやすいということだ。先生のいう大風呂敷というのは、まさに同じ考え方であると思う。

第二段階は、「構想を練る」である。大風呂敷に見合うアイディアを考えるためには、当然いきなりディテールに入ってしまっては上手くいきにくい。問題の難易度や、考える人間の能力に応じて思考の期間は異なると思われるが、この構想が纏まるまでには時間がかかる。大風呂敷を広げているので、その解決策が瞬時に思いつくようであれば、それは天才的に頭が良いか、運が良いか、誰にも注目されず手つかずのまま眠っていた簡単な問題かなど、かなり特殊な状況であろう。

という前提で、構想が纏まるまでには、時間がかかるわけであるが、先生がこの段階で重要だというのは、アイディアの「発酵」だそうである。分かりやすく言うと、一日のある程度の時間(1日中かもしれないが)、「こうやったらうまくいくのでは?」「こんなアイディアはどうだろう?」など様々な思考トライアルをする。でも上手くいかない。そんな時は、一旦問題を忘れて寝てしまう。要は、時間を置くのだという。そして翌日も同じように考えて、上手くいかない。一旦忘れて寝てしまう。この時間を置く期間が重要で、この仮定を先生は「発酵」と表現されているのである。この話はとても面白いと思う。誰でも経験があると思うが、何かに悩むとその解決法や原因の分析など様々なことが頭から離れにくくなる。でも、大抵の場合その思考というのは広がりが少なく、細かい場所で堂々巡りになっているケースが少なくない。そして、この堂々巡りになってしまうと、時間ばかりが過ぎていき、たいして良い解決策が出てくるわけではない。おそらく先生は、このような状況をずっと続けていても良いアイディアは思い浮かばないと経験的にご存じなのだと思う。そのため、一旦忘れて、寝てしまうと仰っているのだと思う。おそらく寝てしまうというのは比喩的な表現で、おそらく他のことをしたり、誰かと話したりという別の刺激を脳に与えているのだろうと思う。そしてまた翌日に考え直すと、脳には昨日とは違う刺激とか、情報が入ってきているので、もしかしたら違う角度から問題を考えられたりするかもしれない。みたいな話なのだと思う。とても興味深いやり方な気がする。

そしてこの「発酵」を繰り返すことによって、ある時「こうやったら上手くいくかもしれない」というアイディアが思い浮かび、それを手掛かりに構想全体を組み上げていく。先生は、研究者という仕事をしていて、この瞬間が最上の喜びであると仰っている。そして、このような新しい概念とか理論の構築という人間の最も楽しい行為を放棄してしまったら、仕事とか人生とかの楽しみが減ってしまうのではないかと仰っている。

AIの先駆者が話しているので猶更に含蓄があるが、いくら便利だからだといって、なんでもAIに質問して答えを教えてもらうということを繰り返していたら、人間は馬鹿になってしまうのではないかと仰っている。もしかしたら将来AIが新しい理論を創造できるようになる時が来るかもしれない。しかし、そのような思考は今のAIにはできない。つまり、理論創造とは、人間に残された、人間にしかできないことで、それをやめてしまったら、人間にどんな価値があるのかと仰りたいのではないだろうか。

詳細化・モデル化する

思考の「発酵」過程を経て、新しい構想が纏まったら、最後は仕上げの段階で詳細化・モデル化する工程である。この段階は、構想を他の人にも分かるように形として表現する、つまり視える化するという作業になる。先生のような数理学者の場合は、具体的に計算をして、構想を数式として組み上げて、それが正しかを確認するというのがおそらく最初のプロセスで、最終的には論文という形で纏めるということになるであろう。

当然、この作業は重要で、構想とかアイディアというのは、残念ながら思いついているだけでは全く無意味で、この詳細化、モデル化ができないとほぼ価値がない。よくビジネスで自分でも話していて無意味だと思う発言に、新しいスタートアップのサービスをみて、「このアイディアは自分も考えていた」というものがある。要は成功するビジネスアイディアを自分も思いついていたという自慢話のようなことであるが、この手の自慢話ははっきり言って価値が全くない。アイディアというのは、思いついただけでは、その人の成果として全く評価されない。人間の社会的な評価・価値というのは、残念ながら脳内で考えたかどうかで決まるのではなく、そのアウトプットによってなされるからである。

このBlogで使ってきた言葉でいえばExecutionということになり、これが面白いかどうかというのは人それぞれであると思うが、私個人でいえば、ビジネスにおいてはこのプロセスが最も面白いと考えている。

先生のようなノーベル賞級のインパクトのあるイノベーションを万人ができるとはなかなか言えないが、甘利先生が新しい理論を構築する時の3つのステップは、私たちの日々の仕事の中で参考にできることが多くあるのではないかと思った次第である。

成功のポイントとなるシンプルなロジックを理解する

2つ目の興味深かった話は、物事の本質をとらえることの重要性という話である。この話は、人間の脳を理解する難しさについて話していた時に仰っていた内容になる。先生曰く、人間の脳というのは、進化の過程において、一直線に効率的に進化してきたものではないそうだ。その過程をランダムサーチと表現されていたが、人類の歴史において様々な進化の方向性のトライ&エラーのようなものがあり、ある方向の強化をしてみたがそれは効率が良くなく、一旦立ち戻って別の方向に強化がなされて、それがよければ遺伝的にマジョリティとなっていくみたいなことの繰り返しで今の我々の脳は作られてきたということである。そしてもう一つの特徴は、その過去のトライ&エラーの一つ一つが捨てられておらず、脳の機能として残っているということである。その結果として、脳を生理科学的に分析すると、A→BのようなInputとOutputの関係性を思考するのに、シンプルで効率的にシステムが動かずに、複雑な動きをすることがあるらしい。これが人間の脳を科学的に理解することの難しさであるということであった。人間の凄さというのは、このように進化した脳を持っていることであるし、その存在自体は素晴らしいものだという。しかし、人間の脳が行う情報処理というのは、情報処理の原理から言えば効率的なものではなく、それは別の学問として理論化されるべきであり、その一つが情報幾何学であると仰っている。

この話は私が推奨しているPDCAの高速回転というデジタルマーケティングのマネジメント手法に対する重大な注意喚起になっていると思う。PDCAという行為は、甘利先生の話に出てくる脳の進化のプロセスと非常に似ている。論理的に行えればエラーの数が減らせる可能性があるが、PDCAの本質は小さな失敗を早く意図をもってであるので、失敗自体は許容することが重要である。また、この話は失敗に限定されるわけでもなく、成功についても、以前の成功法則Aよりもより改善インパクトが大きい成功法則Bが発見された時には、AはBに上書きされて過去のものになることもある。

このようにPDCAというのはどんどんアップデートされていくわけであるが、長年にわたってPDCAの繰り返しの中で出来上がった一連のプロセスが部分最適の積み上げになり、全体最適の観点からは複雑になり過ぎて最適化されていないというようなケースが存在する。さすがにビジネスの世界では一つ一つのサービス・システムに脳の情報処理における情報幾何学のような原理、理論を構築することは難しい。しかし、この問題意識にたいして、それぞれのサービス、システムの本質的な成功法則、最重要なコアKPIのようなものが何で、それはどのような仕組みで動いているのかを理解しておくことは重要であるとこの話を聞いて思うわけである。

ビジネスの世界でも「俯瞰的に見る」みたいなワードが出てくることがあるが、私はこのような視点は重要であると思う。そもそも自社のサービスが顧客に選ばれている本質的な理由は何か?競合と比較して、何が優れていて、何が劣後しているのか。そして、将来どのような方向にサービス全体を改善・進化させていくのか?このような視点を特に上位マネジメント層の人材は持ちながら、自社のPDCAの成果を定期的に確認することが必要であると思った。

以前、理論物理学のコラムでご紹介したカリフォルニア大学バークレー校の野村先生が仰っていたことに、天動説と地動説の話で、良い理論というのはシンプルなロジックで多くのことが説明できるものだという話をされていた。天動説で日々の星の動きを説明しようとすると一定の法則性は存在するため説明は可能である。しかし、その法則は非常に複雑なものである。しかし、地動説の視点で地球が動いているという前提に経てば、夜空の星の動きはほぼ一つのロジックで説明できてしまう。大抵このようなシンプルな理論のほうが正しいと仰っていた。

これはビジネスにおいても当てはまることの多い指摘だと思う。それぞれの会社が提供している商品・サービスが売上を上げ、利益をあげられている背景には、本質的でシンプルなロジックが多くの場合存在しているし、そのようなものがない事業というのは大抵の場合コモディティ化し、価格競争に巻き込まれ、利益を維持できなくなる。物事を複雑にとらえず、シンプルに理解できる本質をビジネスの世界でも大事にしなければいけないということを、脳の情報処理と情報幾何学の話を聞いて考えたわけである。

純度の高い理論科学の思考法をビジネスに活かす

今回は、情報幾何学という、Youtube動画を見る前は名前も知らなかった学術分野の大先生のインタビューからの気づきをネタに2点程考えてみた。以前はよく野球の動画をネタ元にしていたのだけれど、最近はScienceに急速に傾斜している。

ただ、この2つには実は共通点があると思っている。基礎科学研究も野球のようなスポーツも、非常に範囲を制限した、純度の高い世界で、究極のPDCAを回しているということだ。そして、勝敗とか、正否がはっきりと出たりするので、戦略やロジックも検証がしやすく、突き詰めやすい。このような、純度の高い世界には、戦略的な思考が純度が高く実践されているので、ビジネスの世界で曖昧にされているようなこ明確に表れやすい。甘利先生のじっくり考えることと「発酵」させることの繰り返しではないが、ビジネスのことだけ考えずに、外の世界からの刺激を入れてみることも重要だと強く思う非常にためになる動画であった。

AIに置き換わらない仕事とは?

PivotのExtreme Scienceが面白い

相変わらず本を読むことはほとんどせずに生活するという非常に怠惰かつ学習意欲が低い人間であるので、Youtubeのつまみ食いのような話でお恥ずかしい限りであるが、最近気に入っているYoutubeのコンテンツがPivotのExtreme Scienceというコンテンツである。ビジネスとかマーケティングのように、何処まで行っても理論的な正解のようなものにたどり着かないような仕事をしていると、たまに純粋科学的な、数理的に正解が証明できてしまうような世界や、自分の知識と頭脳では到底理解不能で、どういう頭の構造をしていたら、こんなことが創造・想像出来たり、理解することが出来たりするのだろうという極限の頭脳のアウトプットに触れて、刺激を受けたりする良い機会になっている。

このコンテンツは基本的に、司会者の方と、脳科学者としてメディアに比較的露出されている茂木健一郎さんがナビゲーターとなり、毎回各研究分野のトップクラスの研究者をゲストでよんで、その研究分野の最先端の研究状況を素人にも比較的わかりやすく紹介してくれるというものである。

 今回は、最近みた動画のうち、個人的に非常に面白いと思った方のインタビューにを題材にして考えたことを書いてみたい。

ぶっ飛んでいる最先端の理論物理学の世界

その人物は、理論物理学者の野村泰紀先生である。素粒子物理学であるとか、量子重量理論、宇宙論などのような、私のような文系の素人には名前を聞いても違いも判らないような意味不明な学問領域の専門家である。この最先端の理論物理学の世界というのは、おそらく天才的な頭脳の持ち主が、この宇宙の成り立ちを物理学的なアプローチで解析するという分かりやすく言うと「ぶっ飛んだ」話を数式で計算しながら議論している研究領域である。この20年くらいでそれまでの理論的常識を覆すような新しい発見が次々に行われ、ちょっと話を聞いても、「本当にそんなことあり得るのか?」というような話が連発している知的好奇心的には、とても興味深い分野である。

一般人にも分かりやすい代表例が、マルチバース宇宙論というものであり、先生の説明によると我々が生きているこの宇宙というのは、物理学的なロジックが奇跡的な均衡により成り立っている世界であることが物理学的には分かっており、その物理学的な変数のようなものが少しずれただけでも我々が住んでいる宇宙が今の形のまま存在することはできないことが分かってきている。と考えると、我々が住む宇宙が、唯一無二の宇宙であると考えるのは不自然で、宇宙というのは同時並行的に無数に近い量で複数存在し、我々はその中のたまたま我々が生きている物理法則が成り立つ一つの宇宙に住んでいるに過ぎないと解釈したほうが自然であるという考え方だそうだ。

この話を聞いただけでも、茂木先生が「ぶっ飛んでいる」といい、私もそれに完全に合意してしまうというのに多くの方が共感していただけるような気がする。

新しいアイディアを産むために必要なのは最高の頭脳

もちろん、このマルチバース宇宙論のようなぶっ飛んだ話自体にもとても興味があるので、そのうち先生の著書を読んで見ようと今時点では思っているのであるが(本当に読むかどうかは怪しいが。。。)、この話をこれ以上突き詰めて書こうと思っても、全く私の知識レベルが追いついていないので、今回取り上げたいのは、このような我々の日常生活のなかでは到底実感できないようなとんでもないアイディアがどのようにして産まれてくるのかという田中先生の職場であるカリフォルニア大学バークレー校の職場の話について書いてみたいと思う。

マルチ-バースのような突拍子もないアイディアがどのようにして産まれてくるのであろうか?そもそも理論物理学の最先端の学者の人たちの仕事というのは、ハイスペックなスーパーコンピューターで行わなければできないような膨大な計算をするというよりも、様々な思考実験のようなものをしながら、アイディアを考え、それを計算式のモデルに落とし込んでいくというプロセスが一般的であるということだ。最終的にできた数式モデルに様々なデータを流し込んで検証する際などにコンピューターを使うこともあるそうであるか、それ自体はあくまで検証のプロセスであるため、元になるアイディアを創造するというプロセス自体は分かりやすく言えば人の脳みそと紙と鉛筆があればできてしまうそうである。つまり、最先端の理論物理の研究施設をつくるために莫大な設備投資的なものをしなければならないかと言われれば答えはNoということである。

では、最先端の理論物理学の研究をするためには何が必要なのであろうか?田中先生は、優秀な人材が一か所に集まっていること、つまり、先生はご自分では仰らなかったが、分かりやすく言えば世界最先端の業績を実現しようと思えば、世界最高の頭脳集団が集められるかどうかでその成果は決まってくるということだ。事実、野村先生が率いている研究所には10名程度の教授陣がいるそうなのだが、そのメンバーにアメリカ生まれでアメリカで教育を受けた人は一人いるかいないかくらいのレベルで、アメリカの大学とはいっても、まさに世界中から最高の知能を集めているという環境であるのだろう。

 少し話はずれるが、以前にシリコンバーレーの強さがどこから来るのかという話をしたが、まさにこういう話を聞くと、最先端の研究分野において日本がアメリカに勝てる可能性は著しく低いなと思ってしまうし、その根源的な差はどこから生まれてくるのかといえば、日本のトップレベルの大学の予算規模の小ささと英語ではなく日本語で教育をしているという閉鎖的な環境が原因であると改めて思う。

ディスカッションと計算を繰り返す

話をアイディアの創造に戻そう。

では、そのような世界最高レベルの頭脳を集めたとして、その人たちは日々どのように仕事をしているのかというのが次の疑問である。なんとなく大学の先生のオフィスというと、暗い廊下に面した部屋で、そこに実験道具やら、書物がいっぱいあるみたいな部屋を想像する(ちょっと古いが、福山雅治が主演していたガリレオの研究室みたいな)が、バークレーのオフィスは全く異なるものだそうだ。

バークレーの理論物理学チームのオフィスというのは、仕切りのない広い空間にデスクが並び、壁は一面ホワイトボードになっているらしい。そして、研究者たちは、日中のオフィスにいる間は大抵そのホワイトボードの一角に数人で集まり、自分たちのアイディアについてディスカッションをしているということだ。理論物理学者というとそれこそ福山雅治のガリレオ先生のように寡黙で内省的な人が多いのだろうと勝手にイメージしていたが、実際にはかなりよく喋る人が多いそうだ。「昨日こんなアイディアが思い浮かんだ」「このアイディアは上手く行きそうなんだけどなぜか計算が合わない。何が問題なんだろう」「昨日こんな面白い話を聞いたんだけどどう思うか?」みたいな話がそこら中で起こり、議論が交わされているそうだ。

これまた日本のステレオタイプな大学の研究室のイメージは、安っぽいソファーがあって、研究生が徹夜で研究をして仮眠をしているみたいなイメージだが、それも全く異なるそうで、17時とかになるとみんなサクっと家に帰ってしまうので、いわゆる定時以降はほどんど人はオフィスにいないということである。

こういう話をすると、またステレオタイプな日本人のイメージでは、「やっぱりアメリカ人は長時間労働はしないのね」とか、「長時間労働している日本人は生産性が悪い」という話になりそうだが、先生はそれも違うと仰っていた。なぜなら、基本的にそれぞれの研究者にとってオフィスは周りの研究者とディスカッションをするための場で、そのためにオフィスに来ている。しかし、もちろん理論物理学というのは計算してモデルを作らないといけないので、話しているだけでは何時まで経ってもアイディアが新しい理論として形にならない。つまり、それぞれの研究者は、オフィスでのディスカッションの成果を毎日自宅に持ち帰り、帰宅後に自宅でその日のディスカッションの内容から浮かんできたアイディアを実際に計算して形にしているのだそうだ。その証拠に、大体翌日オフィスに来てみると、多くの人が「昨日話したアイディアを昨晩計算してみたんだけどここがうまくいかなかった」みたいな話になって、また、それについての議論が始まるそうである。その環境で、田中先生はアメリカ人の労働時間が短いとか、ハードワーカーではないなどという話は全く当てはまらないと仰っていた。

共同と一人作業の正しい使い分けとは?

この話のポイントはなんであろうか?

・新しいアイディアというのは一人で考えているだけでは産まれにくい。人間同士のディスカッションの中から産まれやすい。

・人間同士の共同作業の効率は一か所に集まる人間のレベルが高いほど新しいものが産まれる確率が上がる。

・オフィスという場は、ディスカッションのように複数人で行うべき業務を行う場所である。一人でやるほうがよい作業を複数人がいる場で行っても効率が悪い。

ということではないであろうか?

この3つのポイントに私個人は強く同意するが、今の日本のビジネスの環境を見ると、どんどんこれと反対の方向に進んでしまっているような気がしてならない。

一つ目の話は、コロナ禍で多くのビジネスパーソンが覚えてしまったリモートワーク問題である。私があまり好きではないワークライフバランス議論とあいまって、コロナ禍以降、人材採用時にフルリモートでないと人が集まらないみたいな話を聞くようになった。もちろん何らかの事象で地方エリアに居住せざるを得ず、そのエリアで自分のスキルを活かせる仕事がないというような事情がある方は別であるが、単純に家のほうが楽だからよいという発想でリモートワークをしたいという人が、それなりの割合で発生してしまっているように思う。しかし、このバークレーの話を聞いていると、何か新しいアイディアを生み出すためには、オンライン会議よりも、場を共有して、インタラクティブ性を極限まで高めたディスカッションの方が効率が良いということなのではないだろうか(もしかしたら、バークレーは野中先生が学んだ場所で、その後も長く関係を持っていた大学なので、ナレッジマネジメントの理論が理論物理学の職場デザインにも影響を与えているのかもしれない)。有名なアインシュタインが特殊相対性理論の論文を書いたときには研究機関の学者ではなく特許庁の職員で一人で研究せざるを得ない環境であったため、20世紀最大レベルの理論物理学の成果の初期の3つの論文はほぼ一人で作ってしまったそうである。つまり、必ずしも一人で新しいアイディアが作れないわけではない。しかし、アインシュタインはおそらく究極の例外のような人物で、新しい何かを生み出すためには、おそらく一人で黙々と考えているよりも、ディスカッションにより、インプットとアウトプットの高回転が繰り返される場のほうが、脳に刺激も多いので効率が良いのではないかと思っている。

それを、通勤時間がもったいないであるとか、家で仕事をしている方が融通が利く、もっとひどい場合にはサボってもバレにくいので楽(実はこの理由が正直多いと思う)、などの理由でリモートワークが多いほどよいと言っているひとは、自分が仕事の中で新しい何かを創造するという気持ちが正直足りないのだと思ってしまう。

では、サボれるみたいな低次元の話をしている人は別にして、なぜリモートワークの方が効率がよいという人が多いのであろうか?それは、一つ飛ばして3つ目のポイントとかかわってくるのだと思う。計算のように一人で集中して行うタスクについては、複数人がいる場よりも自宅の書斎(を持っている人がどれだけいるか分からないが)のような一人になれる場所の方が生産性が高いのだと思う。

つまり、本当にリモートワークのほうが業務生産性が高い人というのは、単純に一人作業が業務に占める割合が高いのではないだろうか?

AIに置き換えられない業務とは何か?

ただ、ここでまた別の問題が発生する。AIが人間の想像を超える速度で発達していく中で、一人で黙々と行う多くの業務というのはおそらくAIに置き換わりやすい業務の可能性が高い。つまり、人間が行うべき業務というのは、おそらく新しいアイディアや知識を産むようなクリエイティブな作業に集約されていくはずである。そしてそのようなスキル・能力を持たない人材は、AIにできない作業で、人間にしかできない何らかの作業(それが何かは分からないが)に、おそらく低い賃金で働かざるを得なくなるのだと思う。つまり、仕事の大半の時間を自宅のデスクでやった方が効率が良いという仕事を現在している人というのは、長期的にみるとリスクが高い可能性があるのではないかということだ。

では、そうならないためにどうすれば良いのかといえば、飛ばした2番目の話になる。つまり、自分を優秀な人が集まる高密度な集団の中におけるかどうかという話になるのではないだろうか?少数精鋭で新しいアイディアを生み出し続ける集団にこそ、自分が新しいアイディアを生み出せる機会を増やす場であり、それこそがAIに置き換えられない成果を出し続けるための法則なのであろうと思う。

2024年に50歳になった私などあと20年くらい仕事ができればと思っているが、この2年くらいのLLM系のAIの進化を見ると、5年後10年後でもどれだけ人間の仕事が残っているか怪しくなってきたのでちょっと心配になりつつある。

一方、今新卒で社会人になった20代前半の世代などははるかに進化した40年後のAIと仕事を取り合わなければいけない。AIが出せない付加価値を生み出さなければいけないのであるから、相当にエッジのきいた経験とスキルを若いうちに身につけなければいけないのではないかと思う。それなのに、リモートの方が楽で、効率が良いという理由で、仕事を本当に選んでしまって良いのであろうか?

今回は、理論物理学という超ぶっ飛んだ世界の頭脳たちが、どのようにして新しいアイディアを理論として作り上げていくのかという話の一端を参考に、私たちがビジネスをする環境について考えてみた。ビジネスとは一番遠い位置に居そうなアカデミックな世界からの刺激も、なんか新しいビジネスの形のような気がして楽しい今日この頃である。

リーダーが設定する限界値の重要性

三木谷さんが良く言っていた「徹底力」の重要性

自分のビジネスのポリシーというか、取り組み方というのか、正しい表現は分からないが、少なくても、仕事をするうえで大切にしていること、信じていることを考えていると、最初に働いた会社のカルチャーというか、教えのようなものがいかにDNA的に自分の中に組み込まれているかということを、歳をとってくると実感する。私の場合は、それが楽天という幸運にもその後大きく成長するスタートアップで、その経営者である三木谷さんという人の比較的近くで仕事をさせてもらった経験なので、特にその影響を強く感じるのかもしれない。

最近、いろいろな方とお話しする機会が増えてきたが、楽天・三木谷さんの教えで、私がいま改めて大切だと思っている仕事をする上でのスタンスを表現する言葉に「徹底力」という言葉がある。ハッキリ言うと、私自身はいい加減な性格で、飽きっぽい部分もあって、特に楽天にいた30代半ばくらいまでは楽天内の水準では、徹底力っぽさが寧ろなくて、会社内で浮いている存在であったのではと自覚しているが、一歩楽天の外の世界を見てみると、改めて三木谷さんが言っていた事の重要性を認識するのである。

PDCAの精度が視える化できないという問題

このブログで一貫して話していることにデジタルマーケティングにおけるPDCAの高速回転とその精度アップがある。AI化が進む中で、そんな地味なことを人間がやる必要があるのかという人がいるかもしれないが、私は絶対に間違いのない真理だと考えている。ただ、この高速回転と精度アップという2つのキーポイントの難しい所は、言葉でいえば総論賛成で、反論の余地もない話なのであるが、ではそれを実践しましょうという段階においては、どの程度やれば良いのかが視える化されにくいため、自分の立ち位置を認識しにくいという事がある。現在コンサルタントの仕事をしている立場で、クライアント企業に対して、「御社は、マーケティングの〇〇に改善余地が大きいと思われます。このため、施策Aについて、詳細にデータを分析し、その結果に基づいて継続的にPDCAを回し、精度をあげることで、マーケティング効率が△%改善することが見込めます。」みたいな提案をしたとする。そして、私がその部署のマネジメント責任者であれば、そこまで持っていける自信があったとする。しかし、数か月後に「あの施策、言われた通りにやってみたのですが、仰る通りには改善しませんでした。社内で施策Bを優先的にやってほしいと要望があったので、当面そちらにリソースを割くことにします」みたいなことを言われて、改善が実現しないことが少なからずあったりする。もちろんそれは、私のコンサルタントとしてのスキル不足、未熟さが最も大きな原因であるわけだが、事業会社でマーケティング責任者をしている立場と、外部から第3者的な立ち位置で業務改革・改善をおこなう立場での仕事の仕方の違いに戸惑いを覚えることも少なくない。

この事例で私の提案が結果に結びつかない原因は、提案の中の「継続的にPDCAを回し、精度をあげることで」の部分の精度のレベル感の問題であることが大半である。例えば、自動車のミッションであれば、1速から6速までというように、ギアが6種類あって、それぞれでタイヤの回転速度をロジカルにコントロールすることが可能である。それは2つの歯車の歯の数による単純な割り算の問題だからである。一方で、PDCAの精度というのは、残念ながら視える化することが難しい。PDCAの精度を決めるのは、P、D、C、Aそれぞれの企画・実行精度の積み重ねであるため、総体として5段階の5まで精度を上げてくださいということが非常に難しいのである。

PDCAの限界値を正しくマネジメントするための3つのポイント

では、この曖昧な「どのくらいまで精度をあげられるのか?」をどのように認識し、チームに伝えれば良いのであろうか?この実現のポイントは主に3点である。

  • チームのリーダーが精度向上の到達可能点を見極められる
  • PDCAサイクルの回転状況を観察し、到達可能点に達しているか否かの見極めが出来る
  • PDCA精度の到達可能点と現状のGAPを認識し、その差分を改善する期間を正しい目標設定としてチームに提示する

この3点を正しく実行出来れば、チームのPDCAサイクルの精度は正しい水準まで改善出来る可能性が高くなる。ひとつずつ細かく見ていくことにしよう。

チームのリーダーが精度向上の到達可能点を見極められる

陸上の100メートル走でも、野球のピッチャーでもそうであるが、人間というのは、見たことのない世界、経験したことのない世界というのは現実的に到達可能な設定目標として考え、それに向かって努力することは困難である。例えば陸上の100メートル走で誰も10秒を切ったことがない状態で、9.5秒の記録を目指して練習することはしないであろう。まず、9.9秒を目標にするはずである。プロ野球のピッチャーも誰も170キロの急速を実現していない段階で、180キロを目指して練習をすることはないであろう。しかし、一方で、ひとりが10秒を切るタイムを100メートル走で記録すると、9.9秒台の記録は人間に実現可能な領域であることが分かり、一気に複数人が9秒台の記録を実現したりする。

このような状況は、何もスポーツに限った話ではない。私は人間というのは、自分や自分の周りで実現できたこと、経験できたことの最高値をその行為の限界点であると認識して、リミッターをかけてしまいやすい傾向があると思う。最初に例に出したスポーツの記録というのは、明確に数値化して提示されるので、広く一般にその限界値が提示されやすい。しかし、ビジネスというのは、例えば車の馬力などのように製品スペックや営業部門の一人当たりの売上額のように数値化が出来るものもあるが、ここで議論しているようなPDCAの精度のような数値化が困難な行為については、客観的なレベル感を提示することが難しい。ただ、上述のように、自分が経験したことについては客観的な表現は出来なくても、感覚的にもっと改善できるのか、現状がすでに改善の限界値に近いのか判断は比較的正確に出来るものだと思う。

チームのリーダーの経験の最高到達地点がチームの目標設定になる

では、あるマーケティングチームが目指すことが可能なPDCAのオペレーション精度の向上の限界値とは何で決まるのであろうか?私は、そのチームの構成員の誰か1名がそれまでに経験した最高地点がそのチームが到達可能な限界点になると思う。そして、そのチーム構成員の経験の最高地点というのは原則としてそのチームのリーダーのものであることが望ましい。

その理由は、リーダーの設定限界点というのは大抵の場合そのチームの設定目標の基準となる。なぜなら、チームのパフォーマンスの責任をもつリーダーは、自分が実現可能だと思えない目標には基本的にコミット出来ないからである。私は自分の未経験の領域までPDCA精度をあげなければ実現できないような過剰な目標にコミットするリーダーには問題があると考えている。この種のリーダーの問題は、①単純に無責任であるということと、②実現の方法論を持たないため多くの場合部下への接し方が精神論になり、ある程度を越えるとパワハラとも受け止められかねないマネジメントになりがちになることである。

そして、リーダーの経験値が他のメンバーの経験値より低く、チームの最高到達点があるメンバーの最高到達点よりも低く設定されてしまうと、そのチームはメンバー全員のパフォーマンスをフルに引き出すことが出来なくなる。より高みを知っているメンバーは、目標設定が低い職場環境を「緩い職場」「楽な職場」と認識し、100%のパフォーマンスを発揮しなくてもハイパフォーマーとして評価されてしまうのである。これは、チームマネジメントの視点からは無駄が発生してしまっていることを意味し、健全な状態とは言えなくなる。

このように考えると、ある組織というのはリーダーに最も豊富な経験があり、そのリーダーが過去に経験した最高レベルの業務精度水準が、最終的なチームの基準となるということである。

PDCAサイクルの回転状況を観察し、到達可能点に達しているか否かの見極めが出来る

リーダーがチームが到達可能な最高到達点を目標として提示した後は、いよいよチームがその目標に向かって日々の業務をするわけであるが、その段階で重要なのは、正しく現時点の改善度合い、業務精度のレベルを見極め、それが目指すべき目標を頂上としたときに、何合目にいるのかを見極めるという事である。

 この見極めは当然、その山の頂上まで登ったことのある人でなければ判断できず、それは前段の議論のとおりできるだけチームリーダーが担うべき役割であるといえる。別に登山が趣味なわけでもないので、登山を例に話すのが適切かどうかわからないが、一つの山を登る行程というのは、必ずしも均等な困難度合いで、一本調子で頂上に向かって進んでいけるわけではないであろう。勾配が急になったり、足場が岩場で登りにくくなったりと、状況が変化し、進みがスローダウンすることもあるであろう。おそらく、登山のガイドというのは、顧客の体力、登山経験に応じて、頂上に到達するための適切なペースや休憩の取り方など、全体のルートの状況を、自己の経験に照らしてコントロールしていく仕事であるはずである。

 PDCAのマネジメントにおいても全く同じことがいえる。まずビジネスのPDCA、改善活動というのは一本調子に進むことはまずない。もしそのような状況で改善が進むとすれば、それはよほど改善の余地が大きな状況であったか、そのチームがすばらしく優秀かのどちらかである。

PDCAを進めるにあたって重要なのは、いま改善が停滞してしまっているのが、頂上に到達してしまい先に進む道がそもそもないのか、単純に傾斜が急になり進むことが困難であるのかの判断を正しくすることである。そのためには当然、その山の頂上の景色を知っていることは必須であるし、その景色と、今いる地点の景色を見れば、今自分が行程のどの地点におり、進むことが可能なのかどうかを正しく判断できる必要がある。

上述した、私のクライアント企業のように、私が可能と判断して提案した改善提案に対して、実現できなかったと途中でやめてしまうパターンは、多くの場合、改善の停滞ポイントを、改善の限界ポイントであると誤った判断をして、途中であきらめてしまうというパターンである。

もちろん、上に行けば行くほどどんどん傾斜がきつくなるような厳しい山もあるにはあるが、私の経験上その停滞ポイントの問題を解決するブレイクスルーが実現できれば、結構その先に改善が再加速するようなことも珍しくなく、小さな困難に直面してあきらめない姿勢は重要であるし、それを正しく判断できるリーダーの役割は特に重要であるといえる。

PDCA精度の到達可能点と現状のGAPを認識し、その差分を改善する期間を正しい目標設定としてチームに提示する

仕事の目標というのは、Goal設定と同時に、それをいつまでに実現するのかというスケジュールの設定も当然重要である。先に使った登山の例でいえば、下山するまでのスケジュール設定が正しくできなければ、必要な装備や、持っていく食料の量などを決められないからである。雪山で軽く日帰りのつもりで登りだし、何とか頂上まではいけたが、暗くなってしまった。それなのに、日帰りのつもりであったのでテントも食料も持っていないなどということになれば、それは完全に遭難である。

ビジネスにおいては、さすがに遭難して、命にかかわることはないかもしれない。しかし、ビジネスには予算であったり、そのプロジェクトに使えるリソースであったりなど、PDCAによる改善活動において実現されるべき目標に対して与えられる所与の条件は当然存在し、それが実現しないとプロジェクトがクローズになってしまったり、最悪の場合会社が立ち行かなくなってしまったりする。

このため、PDCAをマネジメントするリーダーには、到達する目標と、現状のGAPを正しく測定し、そのGAPの大きさと、そのGAPを埋めるために必要な工程をメンバーに提示することで、PDCAのプロセスを正しくマネジメントしていく必要がある。

もちろん、リーダーも人間であるし、ビジネスというのは刻々と状況が変化し、必ずしも過去の経験値通りにPDCAが進まないこともあるので、最初に提示した工程表が完ぺきに正確である必要はないし、それを求められても実現できる人はおそらくいない。しかし、その工程表をみて、論理的に考えて到底実現不可能のなものであるとメンバーに思わせてしまったり、逆にめちゃくちゃ楽な工程であるととらえられたりしてはいけない。どちらの場合もチームメンバーのモチベーションにかかわり、チームのポテンシャルを十分に引き出せなくなる可能性が大きい。

リーダーは、Goalと現在地の正しいGAPの測定を行い、その工程とスケジュールをチームに提示し、正しいスピードでPDCAが回せられる環境を作らなければならない。

「徹底力」というのは精神論ではない

ここまで見てきてわかるのは、徹底力というのは、何も気合の話、精神論ではない。正しいリーダーシップのもと、目の前に立ちはだかる困難を解決できるものと信じて立ち向かい、停滞を乗り越えて問題を解決していくという継続的なPDCAの回転によって実現するものである。私が見てきた多くの事例において、事業がうまくいっていない事例というのは、このPDCAを粘り強く回転させ続けることができていないことが大部分を占めると考えている。わかりやすくいうと、「みんな(競合も)このくらいやっていると聞いたので、このレベルまで改善しました」というスタンスで良いと思ってしまっている姿勢が問題なのである。

当然、競合の過去の情報を参考にすれば、その競合が正しくPDCAを回していれば、現在の彼らはその先を言っているわけだし、そもそも周りと同じように普通にやっていては、その事業が対競合比で差別化ポイントを作り、高い利益を上げることなどできるわけがない。要は、「普通」では利益など出せないのである。三木谷さんが言っていた「徹底力」というのは、チームが正しい経験値を積み、限界値をどれだけ高められるかを一歩ずつ進むプロセスのことを言っているのだと思う。そして、そのプロセスを継続的にマネジメントすることが出来さえすれば、一時的に成長スピード、改善スピードが落ちたとしても、最終的には競合が到達できないような高みにまでたどり着けるという話なのだと思う。

分子人類学の発展からマーケティングを考える

ゲノム解析技術の進歩が人類の歴史を書き換える

相変わらず怠惰に本を読まずにYoutubeで流れてくる動画を見ながら日々過ごしているのであるが、たまに何故自分にターゲティングされたのか理解不能な動画が推薦されてくる。放っておくと自分の興味のあるものがどんどん狭くなっていくので、あえてそのようなよく知らないものは見るようにしている。

今回のお話は究極に自分の普段の生活からは縁遠い話である分子人類学のお話である。切っ掛けは国立科学博物館の館長でもいらっしゃる分子人類学者の篠田謙一先生のこちらのインタビューを見たことが切っ掛けである。なんとなく先生のお話を聞き始めたら、何やら非常に面白い話をされていた。そもそも、人類学というのは、主に骨を発掘して、その骨の形を比較しながら、このエリアの古代人類とこのエリアの古代人類は骨の形が似ているからおそらく系統が同じであろうというような研究がなされていたそうである。ところが、ノーベル生理学・医学賞を2022年に受賞したスバンテ・ペーボ博士というかたが、古代人骨のゲノム解析(遺伝子情報解析)を最新の技術で解読することに挑戦し、有名なネアンデルタール人の完全に近いゲノム解析に成功したことで、学問の手法が完全に変わってしまったらしい。

人間のDNA情報というのは、およそ30億個の文字列からできており、この情報を詳細に分析するのは、大規模なコンピュータープログラムや解析が必要であるため、それまで骨の形を見ながら、これは似ている、これは似ていないという話をしていた学問が、一気にBig Dataを扱う大規模チームによるデータ解析プロジェクト的な学問へと一気に変質してしまったということである。

結果として、アフリカを起源とする現生人類である我々ホモ・サピエンスが、どのような変遷をたどり地球上に広く拡散し、その過程で、ネアンデルタール人などの他の古代人類とかかわりながら、今日に至っているのかというような過程が、以前の骨の形の比較というレベルとは全く異なる確度で詳細に分かるようになっているそうだ。

例えば、この過程で分かったことの一例でいえば、ホモ・サピエンスの遺伝子には、一部ネアンデルタール人の遺伝子構造が入っており、ホモ・サピエンスの地球上への拡散の過程で、両者の交配が行われていたのはほぼ確定的であるらしい。しかも、ヨーロッパにルーツを持つ人は、それ以外のルーツを持つ人よりもネアンデルタール人の遺伝子が含まれている度合いが高いこと。さらに、ペーボ博士の研究チームの見解では、2020年頃に発生した新型コロナウィルスで欧米で重症化する確率が高く、日本をはじめアジア地域でその確率が低い理由は、ヨーロッパにルーツを持つ人に多く含まれるネアンデルタール人のDNAの一部がウィルスの重症化を引き起こしていた可能性が高いというようなことまで分かってしまうということだそうである。

ちょっと前に、今更ながらユヴァル・ノア・ハラリのサピエンス全史を読み始めていたのもあって、篠田先生の話は非常に興味深く、久しぶりにワクワクしながら聞くことができた。そうすると関連の動画を立て続けに見まくって、それっぽくにわか知識を得て、恥ずかしげもなくこのコラムを書いているという次第である。

ただ、別の動画で脳科学者の茂木健一郎氏が言っていたのであるが、それまで科学の分野でそれ以外のエリアの研究者から奥が深く理解が難しい代表例として「素粒子物理学」があげられていたのであるが、いまは分子人類学のほうが難しいかもしれないということなので、にわか知識の話はこの辺にして、上述の篠田先生のインタビューの話から、ビジネスとか、我々の日常生活にも役立ちそうな話をいくつか紹介したい。

分かっていることより分かっていないことの方が多い

まず、一つ目に印象的であったことは、篠田先生の「科学というのは分かっていることよりも、分かっていないことのほうが多い」という言葉である。この話は、先生が現在国立科学博物館という、日本最大の自然科学博物館の館長をしておられ、単に科学者として研究をするだけでなく、科学の研究成果をどのように一般の人々に分かるように展示をするのかということを考える立場にもいらっしゃるという現状から出てきた言葉で非常に面白い話だと思った。

この話は、まさに先生の専門分野の分子人類学の歴史を見れば明らかである。もともとは、古代人類の骨の形を見ながら、その形状の類似性をもとに、地域や年代の情報を付加しながら、古代人類の発展と拡散の歴史を点と点をつなぎながら仮説を立て、分かりやすく言えばストーリーを作り出していた(表現が適切ではないと思うが)分けである。ただ、そのような情報量では、それぞれの学者の研究成果をつなぎ合わせても、点と点の情報密度が今考えれば甘すぎて、決定的な一つの仮説に集約されることは少なく、〇〇説、××説のように複数の仮説が並列的に議論され、時には学説間の論争になったりする。そして、実はこのように複数の仮説間で論争になり、結論が出ないということは、実態としてその科学の課題・命題は、「分かっていること」ではなく、「分かっていないこと」なのだ。

科学というと私のような文系の人間は、高校の教科書で習った、物理、化学、生物、地学のように、教科書に答えが載っており、テストで100%の正解がある領域として知識が止まってしまっているので、どうしても論理的、客観的な答えが1つあるものだと思ってしまう。ただ、確かに、高校の理科系の教科書のすべての内容を完ぺきに理解したところで、できるのはせいぜい大学受験の試験問題で100点がとれる程度のことで、世の中のあらゆる事象を説明できるようにはならない。むしろ、説明できないこと、答えを導き出せないことのほうが大半である。

市場を完ぺきに理解できることなどありえない

実は、この話はビジネスの世界でも全く同じことがいえる。私が専門としているマーケティングの世界、特にデータドリブンなデジタルマーケティングの世界というのは、多くの場合結果が数値、データで示されるので、科学的で、答えが存在する領域であるように思われがちである。

もちろん、このブログで一貫して話しているように、正しいスキルを持つマーケターが、発展し続けるAIを活用したデジタルマーケティングのツールを正しく使いこなし、PDCAの高速回転をし続ければ、マーケティング効率の改善を実現することは可能である。しかし、それは、決して「唯一の正解」ではあり得ない。

おそらく、究極のマーケティングというのは、自社のサービスや商品を使ってくれる人、買ってくれる人のリストを事前に完ぺきに準備し、その一人一人にどのようにコミュニケーションし、それを何時行うのかを完ぺきに整理できて、正確に実現するということである。しかし、皆さんもお判りいただけると思うが、どんなに科学技術が発展したとしても、私はそんなことが実現できる未来が来るとは思えない。なぜなら、そもそも誰が何を考えているかを完ぺきに知るすべなどおそらく未来永劫発明されないと思うからだ。また、万が一そのようなことが実現したとしても、おそらくそんな情報を営利目的のマーケティングに使うことなど倫理的に許されないであろう。

では、答えのないそのようなマーケティングとは不毛でつまらないものなのだろうか?答えがあって、正解が簡単に見つかる仕事のほうが、楽で良い仕事なのであろうか?少なくても、私はそんな正解が簡単に見つかってしまうような仕事に自分の人生の時間を費やすことなどしたいと思わない。しかも、そのような仕事は、残念ながら付加価値は低くなりがちであるため、高い報酬を得ることもできないであろう。

このように考えると、我々が生きている世界というのは、未知の事象があふれているという篠田先生の指摘は全く持ってその通りであるし、だからこそ面白いのだ思うのである。

骨の形状を見比べる世界が、いきなり30億個の文字列を解析して、これまでわからなかった点と点のつながりをより明確に理解することができるようになった。こんなに楽しそうな話を聞いたのは久しぶりで、単純にワクワクするではないか!

集団間の際より、集団内の個人差のほうが大きい

もう一つ篠田先生のお話を聞いていて感心したのは、集団と集団の議論をして、どちらの集団のほうが優れていて、どらが劣っているという話を我々はしがちであるが、そのような議論は本質的に正しくない・意味がないという話である。

具体的には、日本人の起源のようなものをゲノム解析的にさかのぼっていくような研究をしていると、「日本人は特別だ」「日本人は他の民族よりも優れている」という議論をしたがる専門外の人が少なくないそうだ。しかし、そもそもDNA的にみれば2千数百年前に日本にはおそらく大陸からの移民が押し寄せて弥生時代にそれ以前に日本にいた人々と、大陸から移民してきた人たちの交配が進んでいるためそもそも日本に住んでいる人自体が複数の人種たちの混血であり、何か特別な遺伝的な特徴を持った人間ではないということだ。

そのような先生の視点から言えば、民族であるとか、人種であるとかで人間の集団をグルーピングして、その集団間の差異を議論することにはほとんど意味がないというご意見であった。なぜなら、一般的に集団間の差の大きさを考えるよりも、むしろ集団内の個人の差を見るほうが遥かに大きく、集団内の多様性に目を向けるほうが遥かに健全なものの見方であるということであった。

例えば、陸上の100メートル競争を考えてみれば、日本人トップ選手でも、アメリカ人のトップ選手でも同じく9.8-9.9秒というように、0.1秒程度の違いしかない。一方同じ日本人の中でみれば、9.9秒で走るトップクラスの人間もいれば、20秒程度でしか走れない人もおりその差は10秒とかの違いがある。さらにいえば、おそらく日本人の平均とアメリカ人の平均値をとってみたとしたら、その違いは10秒も違いが出ることはないであろう。

このように考えれば、人間の集団というのは、同じような別の集団(この場合は国)との差分を議論することには大きな意味はないということである。例えばオリンピックのような各集団の極一部の人同士のわずかな差を優劣として、集団同士の優劣を議論することにはほとんど意味がないということないのだ。

STPという概念は現代のマーケティング環境に適しているのか?

この話は、もちろん最近のビジネスのはやりの言葉でいえばDEIみたいな話にもつながるのかもしれないが、私の専門分野であるマーケティングにおいても重要な視点であると思った。

伝統的なマーケティングで重視されている項目にSTPというものがある。Segmentation、Targeting、Positioningの頭文字をとってSTPであり、いわゆるマーケティング戦略を考える場合の基礎となる考え方である。しかし、デジタルマーケティングのAI化が進展している中で強く感じていることは、このSTP的な考え方がマーケティングの世界でどんどん通用しなくなっているのではないかということである。人種や国の違いほどマーケティングのセグメントとかターゲティングの考え方にランダム性はなく、そのような集団間の違いよりはマーケティング分析の結果の顧客のグルーピング間には違いは大きくなると思うがそれは本質的な問題ではない。例えば、マーケティング分析の結果、市場を2つのセグメントに分け、Aというセグメントが自社の商品を買ってくれやすい顧客群でBはそうではない(ターゲットではない)顧客群と市場調査の結果分類したとする。しかし、AとBの違いというのは、単に分析の結果で統計的に顧客になりそうな人が含まれる割合が高いか低いかの違いであり、Bのセグメントに見込み顧客が存在しないわけではない。そして今はデジタルマーケティングの技術がどんどん進んでいるため、Bのセグメントから顧客を獲得できる技術ができている分けである。

そう考えれば、実はセグメントテーションをして、ターゲットを絞り込み、そこにどのような訴求をするのかを競合商品との差分を作るためにポジショニングとして明確化し、ターゲットに当てはまらない顧客群を捨ててしまうという作業に本当に意味があるのかを我々マーケターは真剣に考えなければいけないと思う。

たとえ見込み顧客の割合が高いAセグメントだとしても、そこに含まれる個々の顧客の趣味趣向は多様である。よほどニッチな商品で、セグメンテーションを極限まで細かくしているような場合は別かもしれないが、それなりの規模でヒット商品やサービスを生み出そうとすれば、マーケティングのリサーチにより切り分けるセグメンテーションに含まれる人々の趣味趣向や意思決定基準が単一であることなどほぼあり得ない。つまり、S→T→Pを順番に考え、一つの答えを出すようにマーケティング戦略を考えるという手法自体が、目の前のテクノロジーを考えれば古いのではないかと思うのだ。

分子人類学という学問分野は、ゲノム解析の技術がこの10数年で飛躍的に発展したことにより、BeforeとAfterで根本からやることも、考え方も、これまで信じられていた学説も変わってしまった。

もちろんマーケティングも、インターネットの普及とともに実務の現場は大きく変わってきている。でも、それに合わせて、理論は本当にその考え方が変えられているのであろうか?全く違い領域の分子人類学の話を聞きながら、日々考えているマーケティングの現実について考える今日この頃である。

UIの重要性

日本のUIデザインは遅れている?

デジタルサービス・商品の立上げにこれまで二桁以上の携わって来た。新しいサービス、商品が期待通りに立ち上がるかどうかについては、事業・サービスの基本的な戦略やポジショニングなどのロジック的なことが第一に重要であるのは間違いない。戦略関連の話については、競争戦略論という経営学のひとつの研究領域として多くの学者が議論している内容なので、私がここで気軽に話せるわけではないが、私個人のこの点に関する考えや、実務的な事業計画の作り方の注意点などは、こちらに纏めているので、参考にしてもらえればと思う。

という分けで、新しいサービスとか商品というのは、基本的な戦略ロジックが正しくないと上手くいく確率は非常に低くなると思っているが、一方で、戦略ロジックが正しければ必ず成功する分けでもない。以前に、ビジネスが成功するための3要素として、「Strategy, Execution, Operation」という3つの要素が必要だという話をして、特に日本においては、日本語に翻訳することも難しいExecutionの部分が軽視されがちで、このExecutionをどれだけ上手くやるのかでビジネス・新規事業の成否が変わってくるという話をした。Executionというのは、ひとつのビジネスを作り上げるために必要な有象無象の事象を取り仕切らなければいけないので、こうやれば上手くいくという事もないのであるが、私が日米でデジタルサービスを立上げてきた経験から、日本のデジタル系の事業開発で大きく米国から遅れている点を今回は取り上げてみたいと思う。

それは、UI :ユーザー・インターフェースについてである。最近ではUX :ユーザー・エクスペリエンスみたいな言い方もされるが、そもそもよいUIが造れなければ、よいUXも作りようがないので、今回はUIとして話したいと思う(私は別にUI/UXのプロフェッショナルではなく、単純にユーザーによいサービスを提供したいだけなので、そもそもこの二つの違いを厳密に分けて考えたこともないし、考える必要性も余り感じていない)。

 物凄く分かりやすく表現すると、UIというのは、Webサイトであったり、スマートフォンアプリであったりといったユーザーとの接点となるシステムのデザインの事である。ただ、デザインとはいっても、格好いい絵や写真を選んで、見た目を良くするみたいな話ではない。例えば、メニューをどこに置くとか、コンテンツをどのような優先順位で上から表示するとかいうように、そのサイトや画面でユーザーに行ってもらいたい行動を定義し、そこにユーザーが深く考えなくても自然に導かれるように画面全体の構成・レイアウトを考えるというようなに機能的な面に焦点を置いてデザインをしていくという種類のデザイン業務である。

楽天市場のサーチ・ディレクトリ機能を例に考える

例えば、私が昔楽天市場でやっていた仕事のひとつに、楽天市場のサーチとディレクトリ(商品カテゴリーがツリー構造になったもの)のシステムの開発の責任者というものがあった。楽天市場のように、商品点数が何十万~何千万点というレベルでサイト内に存在する場合、楽天市場のトップページに何らかの商品を買おうと思って来てくれたお客さんにどうやってその商品を何十万商品の中から見つけてもらうのかを検索機能とかカテゴリー一覧ページ機能などを開発して考える担当である。いかに直感的に、ストレスなく商品を探せるのかというサービスの使い勝手の良し悪しで、サイト訪問からの購買転換率が変わってくるので、この点から売上アップに貢献しうようというわけである。そのために必要な機能要件をリストアップし、それを画面上でどう配置し、どのようにユーザーに見せるのかを必死に考えるのが、UIを作るという仕事である。

 では、この楽天市場のサーチ・ディレクトリのデザインをする場合に、考えるべきこととは、どのような事なのであろうか?例えば、有名メーカーAのXXという型番のノートパソコンを探しているお客さんがいると仮定しよう。この場合、おそらく一番簡単に商品を見つける方法は、検索ボックスに「A(メーカー名) XX(型番)」と入力するというものであろう。と思って実際に検索をしてみよう。一発で該当のPCが見つけられるであろうか?検索結果画面を見てみると残念ながらそうはならない。楽天市場のようなショッピングモールの場合、有名メーカーの家電商品などは、複数の店舗で販売されていることが殆どなので、同じ商品がいくつも検索結果に表示されてしまう。では、このお客さんが次にとる行動はどのようなものであろうか?おそらく一番多い行動パターンは、どうせ同じものを買うのであれば、一番安いお店から買いたいと思うのではないだろうか?そうすると、検索ボックスへのテキスト入力以外に、検索結果の並び替え(例えば価格の安い順)という機能も必要そうである。ではやってみよう。これで一番安いAのXXを見つけられるであろう。と思うと残念ながら、そうはいかない。価格の安い順で並べ替えをしたら、何やらXX用に造られたモニターの保護フィルムという1,000‐3,000円位の商品が数百件も並び、何時まで経っても欲しいPC本体が出てこない。このような話はよくあることで、メイン商品の周辺機器のようなものは、メイン商品本体の価格よりも安いことが殆どなので、このようなことが起こるわけである。

では、次にとる行動はどのようなものが考えられるであろうか?思いつく方法は3つくらいであろうか?①検索ボックスに「A XX 本体」というようにPC本体が欲しいという意思表示をする、②PCが数千円で変えるはずもないので例えば価格を5万円~と価格帯を指定して絞り込み検索する、③店舗に商品登録時に、PC本体にはPC本体というカテゴリーに商品登録してもらい、保護フィルムのような周辺機器はPC周辺機器というカテゴリーに商品登録をしてもらい、商品カテゴリを限定して絞り込み検索をしてもらう。

どの方法もお目当ての商品が見つかりそうである。が、実はここまで来ても問題があったりする。①~③の検索結果が出て、目当てのPCが並んだので最安値商品を見つけようと再度価格の安い順で並べ替えたところ、上位に中古のPCが出てきてしまうのである。この結果を見て、ある人は「中古のPCという選択肢もあるのか」と思う人もいるかもしれない。「一方で、私は新品のPCが欲しい」と思う人もいるであろう。前者の人は、当初想定していなかった新たな提案を受け入れ中古のPCを買って、想定よりもお得な買い物が出来たと思うかもしれない。しかし後者の人には、中古のPCを除外する方法を考えなければいけない。そうなると、直ぐに考えつく機能は「A XX]と商品名や説明文に記載されているキーワードを指定する機能とは別に、「中古」というキーワードが含まれている商品は検索結果に出さないという除外キーワード設定というものである。ここまでくると、おそらくA社のXXというノートPCの最安値商品が見つけられるようになる。

ショッピングモールサイトで、ひとつのPCを探そうと思っただけでも、こんな感じである。振り返ってみると、

  • テキスト検索機能
  • 価格安い順の並べ替え機能
  • 商品カテゴリーでの絞り込み検索機能
  • 価格帯指定検索機能
  • 除外キーワード設定機能

とひとつの商品にたどり着くまでに、単に検索ボックスにキーワードを入れてもらうだけでなく、4つもの追加機能が必要そうだということになる。

ただ、このケースというのは、実は事例としては相当シンプルなパターンである。これが、「何かよいノートPCが欲しいんだけど。。。」という状態でサイトに来たユーザーであった場合などは、結構途方に暮れる分けである。また、家電商品のように、ある程度商品スペックなどで希望の商品を絞り込んでいけるパターンなどはまだ良い方で、例えば産直品などのように「アジの干物」が欲しいという場合に、「アジ 干物」などと検索しても、ネットで試食も出来ない写真の見た目はほぼ変わらないアジの干物が永遠と出てきて途方にくれる分けである。そうすると、その様な商品を選ぶ基準が必要だという話になり、商品のレビュー機能を付けてレビューが高い順という並べ替え機能を付けましょうとか、必要な検索の機能というのは、どんどん増えていくわけである。

便利機能満載のUIは良いUIか?

と長々と、楽天市場の検索画面を考えるという仮定で、どんなことを考えながらサービスの設計していくのかを疑似体験していただいたが、私の経験上何らかのサービスを便利にしようと思うと、サービスというのはかゆいところに手が届くようにということで、どんどん細かい機能が増えていくことになる。もちろん、ユーザーのITリテラシーが高かったり、そのサイトを使い込んでいて商品の見つけ方を熟知しているヘビーユーザーには、このような多彩な機能というのは便利であり、無くてはならないものかもしれない。しかし、十中八九間違いないのは、機能てんこ盛りで、ボタンがたくさんあるようなサイトというのは、エントリーユーザーにとっての利用ハードルが高いものとなる。それは機能の数が増えるほど高くなってしまう。パッと思いつく例は、たまにTVなどで映し出される飛行機のコックピットの映像である。何十、何百の計器が並び、同じくらいの数のスイッチ類が並んでいる。全く飛行機の操縦の知識がない人が、あそこに座らされて、さあ飛行機を飛ばしてみろと言われてもほぼ100%の確率で、飛行機は安全に飛ばないであろう。

このように考えると、UIの設計をするということは、あらゆるシチュエーションを想定して、便利な機能をいっぱい作って配置するという事でないことは皆さんにも容易に想像がつくと思う。

究極のUIといえる3つのサービスとは?

では、一方で良いUI、便利なUIとはどのようなものなのであろうか?一言でいうと「説明書がいらないUI」が私は究極のUIであると思っている。その意味で私が凄いなと思った代表的なUIを3つあげてみよう。

一つ目は、Google検索である。今も昔も、基本Googleのトップページというのはシンプルに検索ボックスと2つのボタンのみである。GoogleがこれだけITの世界で巨大な地位を占められた最大の理由は、テキストを打ち込んでボタンを推すだけで欲しい情報が手に入るというUIのシンプルさが最大の原因であると考えている。あのシンプルなUIでユーザーが満足する情報提供を行うためには、検索されたキーワードにFitする検索結果を膨大な情報量の中から選び出し、適切な順序で並べて表示するロジック(アルゴリズム)が重要なのであるが、Googleの最大の強みは「適切な順序で並べて表示する」という部分にそれまでのあらゆるサービスにも勝る精度があったため、あれだけシンプルなUIを貫き通すことが出来たことにある。実は、Googleが登場したタイミングで私自身は前出の楽天の検索機能の開発責任者をしていたのであるが、あのUIとそこから得られる結果を見た時に、心の底から「凄い」と思わざるを得なかったし、自分たちの技術力ではこれはマネが出来ないと途方にくれたわけである。

二つ目はこちらも私たちの生活に無くてはならないiPhoneを始めとしたスマートフォンである。現在のユーザーは、iPhoneならiPhoneを何世代にも渡って使い続けているという人も多いので不思議に思わないかもしれないが、はじめてiPhoneを買ったときに、心から驚いたのが、全く新しいコンセプトで、誰もそれまで使ったこともない商品であるにも関わらず、全く説明書がないということと、にも関わらずなんとなく使っていたらスンナリ使い方が分かってしまったという体験であった。それが、Googleの検索画面のように、裏でやっていることは複雑だが、表面上の機能は超シンプルといったタイプの商品・サービスであればそこまで驚くことでもないと思うが、スマートフォンのようにあれだけなんでも出来てしまう汎用性の高い複雑な商品を説明書もなく、皆が結構直ぐに使いこなせるようになってしまったという事実は、UIという視点で考えると本当に凄いことだと思っている。

そして最後が、この2-3年のIT業界の話題の中心であるChat GPTである。UIの考え方としては、Google検索とアイディアは殆ど変わらない。凄いのは、Google同様の超シンプルなUIで、通常の会話と同等のコミュニケーションで汎用的にAIをコントロール出来てしまうサービスであるということである。最初は身構えて、どう指示出しをしたらよいのかを考えていたが、結論としては普通に会話する気分でAIと対話していると、知りたい答えが返ってくるし、逆にまだAIに出来ないことも人間が理解できるようになってきて、上手に使いこなせるようになってくる。AIというテクノロジー自体は、デジタル広告の世界では20年位使われてきた技術であるが、ここまで大騒ぎになっている原因はAI技術自体の発展という側面と同等かそれ以上にChatGPTのUIのシンプルさ、秀逸さが背景にあると思う。

このように見てくると、UIがいかに大事か、一方で、真面目に考えると、思ったりよ難しいということがなんとなくお判りいただけたと思う。私は、いろいろなデジタルサービスの立上げ、開発を振り返って、UIの良し悪しが、サービスの成否に占める比重は結構高いのではないかと思っている。結局ユーザーがあるサービスを使った時に、良いサービスかどうかを判定する際の最終的な判断軸はUIにあるからである。

アメリカのトップUIデザイナーのアドバイス

という前提で、日本のUIデザインの現状をみると、現状UIデザイナーとして仕事をされている方には大変申し訳ない言い方になってしまうかもしれないが、米国と比較してレベルが高いとは言い難いと思っている。それを実感したのは、米国でアプリゲームのビジネスをしていた経験からである。

10年位前の話なので、現状がどうなっているか分からないが、AppleがApple関連のソフトウェアなどを開発する開発者向けに毎年行っているWWDC(Worldwide Developers Conference)というイベントがあるのだが、当時そのイベントのひとつのコーナー(?)として、UI Laboというものがあった。具体的には、例えば今開発しているゲームアプリのデモアプリを持ち込んで、Apple社内のUIデザイナーに見てもらい、改善点などのアドバイスをもらうというものである。

当時私がいたゲーム会社はGlobal向けの商品を作っていて、App Storeの担当者などにデモを見せると盛んにUIが悪くこれではユーザーに推薦出来ない(App Store内で露出して、Appleとしてユーザーに良いアプリとして紹介できない)と言われることが多かった。そこで、このイベントに日本の開発者やUIデザイナーを送り込んで、いま作っているアプリを見せてアドバイスをもらうことにした。後でその報告を聞くと、はじめての時などは、ボロカスに酷評されてしまったたとのことである。それが新興ゲーム会社であれば分かるが、50年近く日本発で世界に向けてゲームを売ってきた企業がである。

その時の話を聞くと、「このボタンはなぜここにあるのか」「このボタンの色はなぜこの色なのか」「このボタンを押した後の挙動はなぜこうなのか?私はこうなることを想定していなかった」「なぜこういうことが出来るボタンがないのか」「なぜここで通信が走るのか」などなど、とにかく「なぜ、なぜ、なぜ」をひたすら質問されたということだ。

それに対して、ゲーム会社の社員は、そこまで質問攻めにされることも想定していなかったし、そもそもそこまで深く考えてそのデザインを作ったわけでも無かったので、その質問に適切にリアクション出来ず、最後に「もっと考えてUIデザインしないとだめですよ。。。」と言われてしまったという感じであった(この会社の名誉のために言っておくと、翌年以降はこの経験を糧に、そもそもデザインをするスタンスも変え、事前の心構え、準備もして参加したので、その様な状況は大幅に改善された)。

なぜ日本でよいUIが生み出せないのか?

ここで問題なのは、なぜこのようなことが起こるのかという話である。私なりにその時考えた原因は、こんな感じである。

  • そもそもUIデザインが重視されていない
  • UIデザイナーのデザイナー内での地位がそれ程高くない
  • UIデザイナーがサービスの開発工程に参加するタイミングが遅い
  • 結果として、UIデザイナーがロジカルにUIデザインを出来る余地が限定される

という4点くらいが原因として考えられる。以下では、日米の比較という観点を交えながら少し詳しく話してみたい。

まず最初の2つは纏めて説明する。

  • そもそもUIデザインが重視されていない
  • UIデザイナーのデザイナー内での地位がそれ程高くない

全員がそうだとは言わないが、サービスやシステムの開発をする際に、本当にUIが大事であるという認識がされているかどうかのレベル感が、日米では大きく異なると思っている。もちろん、日本のサービス開発者に「貴方の開発するサービスのUIはサービスの成功にとって大事ですか?」と質問したら、Noと答える人はいないであろう。その意味では、UIは重視しているということになるかもしれない。しかし、日米両国でデジタルサービスの開発に関わった視点で考えると、日本の重視というのは本当に重視しているとは思い難いというのが本音である。

それが最も顕著に現れるのが、デザイナー・アーティストの給与である。例えば、一本のゲームを造ろうと思うと、一口にアーティストと行っても、ゲームに登場するキャラクターなどをデザインするコンセプトアーティスト、3Dグラフィックのゲームであれば、3Dグラフィックデザイナー、ゲームの背景をデザインする背景アーティスト、そしてUIデザイナーのような4タイプの異なるデザイナー・アーティストが機能として必要になる。プロジェクトチームの規模によって、それぞれのファンクションを専任の人がやることもあれば、掛け持ちで複数のファンクションを担う小規模プロジェクトもある。私の経験したのは、少なくても4人以上のアーティストが1プロジェクトにいるような中規模の制作現場であったため、それぞれのファンクションに対して専門のデザイナーを採用することになる。

で、問題なのはそれぞれのファンクションの人材を採用するときに必要となる給与条件である。私がゲーム制作に関わっていた10年程度前の状況でいえば、米国でもっとく高い給与条件が必要なのはダントツでUIデザイナーであった。よいUIデザイナーというのは数が少ないので、実績のあるよいUIデザイナーを雇おうと思うと、その他のデザイナーの給与の10-20%増しとかのレベルでなく、1.5-2倍みたいな世界であった。一方で、日本ではどうであろうか?おそらく、背景アーティストかUIデザイナーの給与水準が相対的に低いであろう。少なくても私が知る限り、日本のゲーム会社にアーティストとして就職してくる新卒のデザイナーで最初からUIをゲーム会社でやりたいと張り切って入社してくる人は結構レアな人材である。大抵は自分でキャラクターのデザインがしたいとか、高品質の3Dグラフィックを作る技術を磨きたいみたいな人が多いし、大抵入社後優秀なデザイナーはご褒美として希望のファンクションのデザイナーになっていく。

という状況を見ても、正直言って、日本の制作現場で本当に優秀な人材がUIデザインを担っているというケースは一般的に言って多くはないというのは、想像出来るのではないかと思う。給与というのは、基本的には需要と供給のバランスで決まるが、私の経験した感覚では、少なくても日本のゲーム開発の現場でUIデザイナーの給与水準が相対的に高くないのは、採用側の需要が高くない=UIを重視していない(とは言わないとおもうが)ということの最も典型的な証拠である(あった)と思う。

その結果として起こるUIデザイナーが直面する制作現場での扱いが、日本のUIのレベルが低くなりがちなより本質的な原因である。こちらも纏めて解説する。

  • UIデザイナーがサービスの開発工程に参加するタイミングが遅い
  • 結果として、UIデザイナーがロジカルにUIデザインを出来る余地が限定される

WWDCのUI Laboでゲーム会社のUIデザイナーが直面したのは、AppleのUIデザイナーからの「なぜ、なぜ、なぜ」の質問攻めであったという話をした。また、その前に説明した楽天市場の検索UIの話においてもこの機能はこういう需要を満たすために必要という感じで、一つ一つの機能には必ずそれが解決しようとする問題が明確に存在した。

この2つの例から間違いなく分かることは、UIデザインの良し悪しを分けるポイントは、絵を描く(デザインを描く作業)ではなく、どのように様々な要素を配置し、それぞれのユーザーアクションに対してどのような反応を返すのかというロジックの組み立てであるということが分かる。ところが、初年度に参加した日本人の開発メンバーはUSのトップクラスのUIデザイナーのなぜ、なぜの問いかけに明確な答えが出来なかった。つまり、UIデザインをする際のロジックの構築のレベルが低いのである。

おそらく、この原因は2つ存在する。一つ目は、単純に日本のUIデザイナーはUIデザインをするときにそこまで突き詰めてロジックを構築するという習慣が少ないのだ。もちろん日本のUIデザイナーも千差万別があり、個人差があるので一般論で議論することは危険だが、日米2国間の相対比較でいえば、傾向としてはおそらく正しい見解だと思う。なぜそうなってしまうのかといえば、おそらく駆け出しの若いUIデザイナーのときに、先輩のUIデザイナーから求められる、なぜの回数が少なく、突き詰めて考える訓練が相対的に低いからなのであろうと思われる。では、日本でUIデザインをしている人の論理的思考能力が、USで同じ仕事をしている人よりも著しく低いのかと言われれば、根拠があるわけではないが、おそらくそうではないような気がしている。単純に訓練が足りないのだと思っている。そして、なぜ訓練が足りないのかといえば、それは訓練する機会が少ないからだというのが私の答えである。

ではなぜ訓練する機会が少ないのであろうか?これは今回挙げた2つ目の視点である。UIデザイナーがロジックを突き詰めてUIデザインを行うためには、ロジカルに考える余地が大きくなければならない。つまり、どのようなサービスを作るのかの相当初期段階からプロジェクトに参加し、サービスの仕様を決める段階から積極的に議論し、思考をめぐらし、意見を言える状況である必要がある。しかし、私が見てきた多くのサービスの開発現場で、UIデザイナーがその様な理想的なタイミングからサービスの開発に参加できる例はそれ程多くない。大抵の場合は、事業責任者とUIデザイナーを含まない少数の人間でサービスに必要な機能などの要件を考えて、仕様を決定する。そしてそれを仕様書に纏めてシステム開発チームやUIデザインチームに渡して形にするというのがよくある開発プロセスである。

このようなプロセスでプロジェクトが進むと、UIデザイナーが出来ることと言えば、何のためにどのような機能が必要でそれがどう表現されるべきかなどと考える余地は殆どなく、配置することが決まった要素を何とかきれいに配置する程度の事しか出来る余地が無かったりする。つまり、USのUIデザイナーに「なぜここにこの機能が必要なのだ」みたいな質問をされても、本音は「いやあ、その機能は自分がデザインを始める前に実装することが決まっていたから、聞かれても困る・・・」というのが答えだったりするわけである。つまり、考えていないのではなく、そもそも考えることが要求もされていないというのが実態なわけである(もちろん優秀なUIデザイナーはそのような状況でも、自分なりに考えてデザインするのであるが)。

グローバルでの成功に不可欠なUIのクオリティUP

このように見てくると、日本のデジタルサービスのUIのレベルが必ずしも高くないのは、UIデザイナー個々人のレベルが低いという分けではないのだと思っている。そもそもUIをサービス開発の中で正しく位置づけ、質の高いUIを作る環境と機会をUIデザイナーに提供していないことが問題なのだと思う。おそらく、日本のデジタルサービスの開発現場というのは、エンジニアリング的な側面が強く出過ぎる傾向がつよい気がする。ユーザー向けのマーケティング目線とか、UI目線でサービスを作るという意識がUSと比較して相対的に低いのだと思うのだ。そしてそれは、おそらく意識的にそうしているわけではなく、その様なサービス開発の進め方がシステム開発の現場で意識されていないことが多いのだ。

このような話の象徴的な話が、新しいサービスのユーザーテストをして、UI上の問題点が出てきたときに開発チームに修正を依頼すると、今更そんなことを言われても予定した開発スケジュール内で直すことは出来ないみたいな回答が返ってくることが少なからずあることだ。私からしたら、その様な状況ではそもそも何のためのユーザーテストなのかという話なのだが、残念ながらその様な現場を何度も目の当たりにした。

実はこの話は、日本だけでビジネスをしていても、余り意識されることは少ない。なぜなら、日本のデジタルサービスのUIというのは所謂ガラパゴス的な状況になっており、余りGlobalのスタンダードに沿ったものとなっていない、若しくは、最新のトレンドに追いつけていないからである。しかし、そのスタンダードを認識しないまま、海外に進出すると、結構な確率で使いにくいUIのサービスだと受け取られ、多様な選択肢のあるネットビジネスの中で選んでもらえないという状況に直面する。しかし、それに気が付いたときにはすでに手遅れであることも少なくない。

このBlogで何度か話しているが、日本の経済がここまで停滞している大きな原因のひとつはデジタルビジネスというこの30年で最も成長したビジネスセクターで日本企業が全くグローバルな競争力を持つことが出来なかったからだと思う。これは日本経済の大きな問題点であり、この問題を解決しなければ、日本経済の再生は難しいのではないかと思う。そう考えた時、余り日本では認識されていないが、今回話したUIの問題とは小さくない課題な気がしている。

最後にこの問題の解決というか意識を高めるための良い方法をお伝えしてUIの話を終わりにしたい。是非、様々な海外のサイト使ってみていただきたい。特にGlobalで多言語展開されているサービスを使ってみると、ビジネスをGlobal展開するためのヒントがたくさん隠されている。ガラパゴス島を出て外の世界を見てほしいと思う。

海外で活躍する日本のミュージシャンを見て考える最新のグローバルマーケティング

日本の音楽の海外での成功の背景を考える

最近はJazz以外の音楽もいろいろ聞くようにしているが、私が日本の音楽業界を見ていて面白いな、昔と違うなと感じる点が2つある(別に網羅的、体系的に見ているわけではないので、それ以外のポイントもたくさんがると思うが)。一つ目は、この10年近く続いているムーブメントで1970-80年代くらいの、日本の当時ニューミュージックと分類されていたような音楽が、City Popと呼ばれて海外の若いリスナーが多くついている、所謂シティーポップブームである。二つ目は、YoasobiとかADOなどのミュージシャンのグローバルでの評価と、彼らが作る音楽のクオリティの高さについてである。

シティポップブームが起こった理由

まず、前者についていえば、なぜ今更50年近く前の日本の音楽が海外の若者に受けているのかといえば、要因はこんな感じらしい。

  • そもそも音楽としてのクオリティが非常に高い
  • 日本独特の歌謡曲的な要素と、アメリカやイギリスを中心とした洋楽の要素の独特のミックスにオリジナリティがある。一方で、洋楽の要素も入っているため、全く見知らぬ音楽でもなく、耳なじみが良い。
  • 歌詞の一部に英語のフレーズが混ざっている事が多いので、その部分だけなんとなく一緒に歌えて、盛り上がれる。
  • 日本国内でしか殆ど聞かれてこなかったので、そもそもこれまで聞いたことがない。

この4点くらいがよく言われていることらしい。このシティポップブームの象徴的な存在が、私の世代の人間からすれば、中学生くらいの頃に聞いていた山下達郎さんであり、その夫人でもある竹内まりやさんである。シティポップブームの中でその界隈のファンであれば誰でも知っている代表曲が、日本でそれ程ヒットした分けではおそらくない竹内まりあさんのプラスティックラブである。ここ何年か、非常に幸運にも山下達郎さんのコンサートに何度か伺う機会があり、MCで山下さんが話していたのであるが、数十年前に日本で出したLPレコードが海外の中古マーケット市場でびっくりするような値段で取引されており、それは本意ではないと過去の作品のLPリマスター版を発売すれば、その年に最も売れたLPレコードになってしまうという、本人も不思議な現象になっているそうである。(シティポップについてもっと詳しく知りたい方はこちら

シティポップが海外でこれだけ人気になっている理由については、私のどこかで読んだ仮説が正しかったとして、重要な点は①クオリティが高い、②ユニーク・オリジナリティがある、③親しみが持てる、④新しいの4点が要素としてピックアップできると思う。この4つの要素はどれがかけても現在のシティポップ的なブームにはならないであろう。例えば、どんなに②~④の要素が整っていたとしても、①のクオリティが無ければ高い評価を得ることは難しいであろうし、①~③の要素が揃っていたとしても、昔から知っている音楽であれば「懐メロ」的な扱いになってしまう。そして、今回のシティポップブームで最も重要な点は、④で、日本人にとっては「懐メロ」的にどこかで聞いたことがある(カラオケでおじさま、おばさまが歌っていたとか)音楽が、海外のリスナーに取っては全く交わることが無かった未知のものであったというのが理由であるのだと思う。

最新のJ-Popが海外で人気な理由

時代は流れて、70年代から一気に現在の日本の音楽シーン(の一部)に目を向けると、先に挙げたYoasobiであるとか、ADO、藤井風などの日本のミュージシャンの音楽が世界中で高い支持を得ている。オジサンが重い腰を上げて彼らの音楽を聞いてみると、びっくりするほどミュージシャンとしての技術も高いし、作る音楽のクオリティも非常に高いものがある。

では、なぜ彼らの音楽は、日本のみならず海外でも高く評価されるのであろうか?私の考えはこんな感じである。

  • そもそも、音楽としてのクオリティが非常に高い
  • 日本のポップミュージックの歴史に根ざした部分も多分にあり、海外の音楽とは異なるオリジナリティがある
  • 動画配信サービスなどで、日本のアニメが世界中で視聴されており、その主題歌などで使われることで、広いオーディエンスにアクセスすることが出来る
  • そもそも、音楽活動がボーカロイド作品や、カバー配信(歌ってみたコンテンツのYoutube配信等)から始まっているケースが多く、そもそも音楽活動のターゲットを国内向けと最初から考えていない

などが上げられるのではないかと思う。これが正しいのかどうかは分からないが、いろいろなものを読んだり、Yotubeとかの動画のコメントを見たり、海外のリアクション動画を見ていたりすると、おそらくそれ程的外れな分析ではないと思う。

シティポップの時とは違い、ここで紹介した4要素がすべて揃わないと、海外で評価されないという分けではなく、この内2-3個揃えばイケそうな気がするが、日本の若い才能がどんどん日本の枠を飛び越えて、グローバルに活躍する場を得ていることに対しては、本当に素晴らしいことだと思い、ビジネス界も遅れを取らずにキャッチアップしていかなければいけないと思う今日この頃である。

日本のミュージシャンが海外で評価されるロジックから、日本企業のグローバルマーケティングを考える

と、長々と、私が気になっている日本のミュージックシーンの現象について書いてきたのには、実はこの動きの中に、現代のマーケティングの非常に重要な教訓がいくつも含まれていると思うからである。

もっと思いつくかもしれないが、現段階で、我々マーケターがこの2つの現象から学ぶことが出来ると私が思うポイントは次の3点である。

  • グローバル
  • オリジナリティ
  • スクリーニング

グローバル市場の規模では日本のニッチも巨大になる

まず、絶対に間違いないと思うポイントは、グローバルで評価されることによるマーケットの拡大のインパクトである。ここで重要なのは、日本のこれらの音楽がK-Popのように必ずしも海外のメインストリームの音楽業界でヒットチャートのトップの常連として位置付けられているわけではなく、少し変わった音楽を聞きたいというマニアや、日本のアニメが好きというようなファン層というある意味ニッチ(ニッチというには日本のアニメは大きすぎるのかもしれないが)マーケットに支持されていることである。K-PopのBTSやBlack Pinkなどのように、米国の若者に聞けばほぼ知らない人はいないという状況とはちょっと異なる位置づけであろうと思われる。

しかし、Youtubeの再生回数などを見る限り、そんなニッチマーケットであっても、ターゲット市場を日本のみからGlobalに広げた瞬間にそのマーケットの規模は巨大になる。例えば、人口の1%に指示されるようなニッチコンテンツでもそのターゲットを1億人の日本にするのか、70億人のグローバルマーケットにするのかで、70倍も市場規模は大きくなるという単純計算になるからである。もちろん実際には、ターゲットが70倍になったからと言って、70億人に同等の購買力があるわけではないので、金額的な市場規模が70倍になるわけではないが。

以前に、ゲーム業界の話で、日本企業の多くは日本でヒットしたタイトルを海外展開するという順番で考えるのに対して、中国、韓国という一部の例外を除いて、それ以外の国の企業は最初からグローバル展開前提で商品開発をしているという話をした。なぜなら、その方が市場規模が大きいのが明らかだし、日本は一応世界第3~5位の経済規模を誇る国内市場を持っているのに対して、特にヨーロッパの小国などでは、国内市場が小さすぎて、国内向けのビジネスなど考えるのが困難である。その意味で日本は中途半端に大きな国内市場を持っていることが足かせになっていると私は思っているが、その枠を取っ払ってしまうことのインパクトというのは、論理的に考えれば分かることだし、その成功例として若い日本の音楽家や、結果的に海外のユーザーに発見されたシティポップ系のミュージシャンをとらえることができると思う。

どんなにニッチなニーズであっても、視点をグローバルに向けることさえできれば、展望が開ける可能性が高くなるのである。

オリジナリティのない商品は継続的なユーザー評価は得られない

コンテンツがサブスクリプション課金になり、アニメや漫画なども昔のように週1回の最新話の更新を楽しみに気長に待つなどという悠長な消費のされ方ではなく、多くのコンテンツが一気見されて、大量のコンテンツが消費されるようになってしまったり、ゲームのようにFree to Playが主流になり、とりあえずゲームを無料でインストールしてもらって、ユーザーは大量のゲームの中から面白いと思ったもののみ長くPlayして、課金もするというように、昔と違って、多くのビジネスにおいて大量に試して、良いもののみにお金を払うという世界が、あらゆるビジネスシーンで一般的になってきている。

さらには、レビューサイトや、SNS等でユーザー発信の情報は世の中に一気に共有、拡散されるため、良いものと悪いもの、面白いものと面白くないものの選別が物凄いスピードで広まっていく状況も日に日に強くなっていっているように思う。

このように世の中あらゆるものが大量のお試しと良いものだけに課金という世界に急速になっていっている分けであるが、このようなビジネス環境で生き残っていけるものとはどのようなものなのであろうか?

そもそも、インターネットがこれほど発展していなかった世界において成り立っていたビジネスチャンスで、いま急速に衰退しているお金の儲け方が、サービス・商品の提供側と購入者との間の情報の非対称性を利用した方法である。情報の非対称性というのは分かりやすく言えば、売り手と買い手の間の情報格差、GAPを活用したビジネスである。

ゲームビジネスの家庭用ゲーム機のゲームソフトのマーケティングを例に考えてみよう。インターネット登場前にユーザーがどのゲームソフトを購入する際の判断基準というのは、主にゲーム雑誌の記事と口コミであった。日本でいえばゲーム雑誌の代表格は「ファミ通」であり、口コミの代表格は学校で友達が面白いと言っているかどうかみたいな話である。まず、ゲーム雑誌についていえば、そもそも数が限られているので、ゲーム会社のマーケターやPR担当者とゲーム雑誌の記者というのは、人間的なリレーションがあり、その関係性の中である程度情報をコントロールすることが、完全とはいえないが、多少は可能であることが多かった(もちろん、単純にお金で買収するというような話ではない)。

一方、口コミについては、ゲーム会社が内容をコントロールすることは出来ないが、〇〇小学校でつまらないと広まってしまったゲームの情報が、隣町の□□小学校にまで伝達されるスピードというのは現代に比べれば格段に遅かった。

その様な状況の中で、万が一どう見てもつまらないゲームを売らなければいけなくなってしまったマーケティングの担当者が考える戦術とはどのようなものであろうか?ハッキリ言ってしまえば、つまらないという評判が広がりきる前に売れるだけ売ってしまおうという事であろう。なぜなら、ゲームソフトというのは、商品を購入して、家に持って帰って遊んでみるまでは、どれだけパッケージをじっくり見ても面白いかどうかが分からないからである。つまり、売り手側の企業はつまらないゲームだと知っているが、買い手のユーザーは購入前にはそれがわからないという情報の格差があり、それを利用して収益の機会を得ようとするわけである(ちなみに、この例は理論上の話をしているのであって、私が所属していた会社がこのような事ばかり考えている分けではないので、誤解なきよう)。

昔のゲームソフトの例を現代の若い読者の方は、「そんな平和な時代があったのか!」と驚くであろうが、まさしくその通りで、現在のビジネス環境では、このような情報GAPでお金を儲けるなどというアイディアはは到底成立しないか、少なくても長続きはしない。なぜなら、多くのものが「お試し」できる環境にあるし、それが無かったとしても、ネットで探せば商品、サービスを利用した人の評判・レビューの情報がたちどころに探せるからである。

では、このようなビジネス環境において、商品・サービスに求められることとは何であろうか?それが私は「オリジナリティ」であると思っている。先のシティポップと、現在のJ Popの音楽でいえば、双方とも西洋や他のアジアとは異なる、ある意味日本語という閉じた文化圏の島国として他の文化世界との障壁が高かった日本というある意味特殊な文化圏の閉じた世界において育まれたバックグラウンドが、他の国の音楽にはないオリジナリティとして捉えられているのである。

ニッチかもしれないが、日本が世界的にポジションを持っているアニメコンテンツなども、おそらく先に挙げた音楽の2つの例と似たような状況にあるのであろう。

これをビジネスの世界に置き換えれば、オリジナリティ=差別化ということになる。現代のビジネス環境において、本質的に商品・サービスの購入者に価値を評価してもらえないものというのは基本的には長期的に利益を上げることは出来ない。なぜなら、誰でも提供出来るようなコモディティ商品は確実に評価が共有され、価格競争に巻き込まれ、利益幅を削り続けなければ売上を確保出来ないからである。若しくは、他に良い商品・サービスが存在しているのであれば、より良いものに乗り換えられてしまうであろう。

これが対象とする市場がグローバルともなれば、当然競合企業の数も市場規模の大きさ同様に増えてくるのでよほど考えないと差別化出来るような商品・サービスにならない。商品・サービスの提供側はこの点をより深く、シビアに考えなければ、事業の成功などありえないのである。

プロの目によるスクリーニングが多くの可能性を摘んでいるかもしれない

最後のポイントはスクリーニングである。といっても、分かりにくいと思うので、もう少し詳しく説明しよう。シティポップとYoasobiの中心人物のAyase氏やADOのようなミュージシャンの共通点というのは、誰かがプロデュースしたり、売り込んだしして世に出たのではなく、Youtube やニコニコ動画のような動画コミュニティの中で、ユーザーにいつの間にか発見され、それに賛同する人が自然発生的に増えたことによって、世に出てきた、認知されてきたという側面が強い。

映像コンテンツでいえば、この対局にあるのが、平成時代までの映像ビジネスの代表格であるTVと映画である。YoutubeとTV・映画の間にあるのがNetflixなどのような動画のサブスクリプションサービスであろう。

では、Yotube→Netflix→TV・映画の順番で変化するものとは何であろう。私は「スクリーニング」という概念であると考えている。まず、Youtube&Netflixとテレビ・映画で異なる点とは何であろう?それは「枠の数」である。TVというのは基本的に1チャンネル分の放送電波枠を国等から委託され、その枠の24時間という有限資源にどのようなコンテンツのラインナップを並べるのかというのを考えるのが最大の仕事である。これに対して、Netflixのようなサブスクリプション動画配信サービスというのは、この24時間という放送枠の制限がない。このため、コンテンツの量は理論上どれだけ増やしても、ユーザーがどのコンテンツを視聴するのかはユーザー側の選択に依存することになる。この意味ではTVとは全く異なると言える。一方で、共通しているのは、コンテンツのラインナップとして何を並べるのかの意思決定はサービスの提供者側が決定しているという点である。

これに対して、Youtubeというのは、TV、Netflixに存在した2つの制限が完全に取り払われたプラットフォームである。つまり、放送枠のようなコンテンツ数の制限はほぼ無限にあり、さらにどのようなコンテンツをのせるかはYoutubeの規約に反しない限りどんなものでもコンテンツクリエーターが決定し、自己の費用で制作し掲載することが出来る。つまり、サービスの提供者は掲載するコンテンツの内容やクオリティに対して基本的に何らかの意図を働かせることは非常に少ない。

つまり、Youtubeというプラットフォームは、枠が無限であることと、そこに掲載するコンテンツの制作・買い付けに関わらないことという2つの条件が揃ったことによって、あらゆるコンテンツを選択することなく掲載する場になっているわけである。私はこれを「スクリーニング」と読んでいる。

Youtube以前のコンテンツビジネスというのは、消費者に届く前のどこかの段階で、必ず誰かの目や耳でスクリーニングが行われていた。それが音楽レーベルのプロデューサーを始めた制作メンバーであったり、番組の編成や制作チームに属するTV局の関係者であったり、Netflixのようなサブスクリプション動画配信サービスのコンテンツ制作・買い付け担当者であったりと可能性は様々である。しかし、間違いないのは、どこかの誰かが、「これは良い。これは悪い。」「これは放送・掲載・販売する。これはしない。」というような意思決定をされたうえで、世の中に届くような仕組みであった。もちろん、プロフェッショナルとして仕事をしている人たちがその様な価値判断をしているので、判断基準であるとか、クオリティ評価の確度などは素人が行うよりも確かであるのかもしれない。その意味では、有象無象の中から良いものを選ぶガイドとしての役割としては価値があるのかもしれない。しかし同時にそれは、そのスクリーニングを行う人のお眼鏡にかなうものである必要があるのも事実であり、その評価が100%正しいとも限らないし、世の中のニーズに合致しているとも限らない。また、リソースの制約があるため、網羅性もない。

しかし、Youtubeのようなプラットフォームが出現したことによって、どこかのプロフェッショナルによるスクリーニングを経ることなくコンテンツが制作者・発信者からダイレクトに消費者に届けられるというルートが出てきてしまった。もちろん、大量のコンテンツの中から、コンテンツが発見されるかどうかのハードルはどんどん高くなっている。しかし、Youtubeのようなプロットフォームには何十億人というユーザーがいるため、どんなにニッチなニーズのコンテンツであっても、求めているユーザーがいる可能性が高く、そのニッチな市場の中で相対的に高いクオリティのコンテンツはかなりの確率で発見され、その界隈で評価され、さらにニーズを取り込んで視聴者を獲得していくというサイクルに乗ることができるような仕組みになっている。シティポップとか、Yoasobi、ADOのような音楽はこのようなサイクルの中でグローバル規模で視聴者・ファンを獲得していったのである。

私はこのサイクルは非常にインターネット的で、面白いと思っている。そして、このようなサイクルはビジネス、マーケティングの世界にも応用すべきポイントであると思う。このような視点で考えれば、これまで培われてきたビジネスの手法、特に伝統的なマーケティングの手法というのは、消費者の目に触れる前にどれだけ正しく、精度高くスクリーニングをするのかという技術を構築してきたのだと思う。経営学などでも「選択と集中」みたいなことがよく言われるように、無駄なこと、やるべきでないこと、儲からないことをどれだけ排除していくのかに重点が置かれてきた。

しかし、インターネットの世界の前提というのは、それを決めるのは企業ではなくて、ユーザーであるという事である。どんなに綿密りリサーチしてもユーザーの正しいニーズを隅々まで理解することは不可能である。寧ろ、ニッチなニーズというのは、真面目にリサーチをすると市場が小さなものと判断され、やるべきではないもの、撤退すべきものと判断されてしまいがちである。もちろん、これまでの伝統的なマーケティング手法で培われてきた方法論を使えば、市場が大きなビジネスチャンスをつかむことは出来るかもしれない。しかし。それではおそらくシティポップとか、日本のミュージシャンのグローバル進出などは起こらなかった可能性は非常に高い。おそらく、現在の状況になる以前はニーズ自体が顕在化していなかったため、リサーチしてもニーズを発見できていなかった可能性が高いからである。このように考えると、スクリーニングというプロセスは、いろいろなものの可能性の芽を積んでしまっているプロセスであると言い換えることが出来るのではないかと思っている。何と勿体ないことなのだろうかと思わずにはいられないわけである。

マーケティングのグローバル展開の根本的な考え方を変えるべきなのでは?

このように現在のコンテンツビジネスを見ていると、インターネットやSNS、Youtubeのようなユーザー発信のコンテンツプラットフォームが広がる現在のビジネス環境において、それ以前の環境でビジネスをしてきた30代以上のビジネスパーソンが学生時代や仕事をし始めて学んできた常識が本当に通じるのかというのは結構疑わしい。グローバル・オリジナリティ、スクリーニング(なし)のキーワードにそぐわないビジネスというのは今後どんどん拡大のチャンスを失っていくのではないかと思われる。もちろん一次的にこの3つの要素が完全に機能する前段階の過渡期的なビジネスとして収益を得られる可能性はある。日本のネットビジネスのタイムマシーン戦略(米国等で流行ったビジネスモデルを海外企業が日本進出前に日本国内向けに展開する)など、日本と海外市場の情報GAPを活用した典型的な事例である。しかし、このようなビジネス手法はビジネスのグローバル競争化とそれに付随する規模の経済性の前に遅かれ早かれポジションを失う可能性が著しく高い。GAFAの企業群と、日本のネットビジネス企業の時価総額の違いを見てもその事はどう考えても明らかである。

このように考えれば、やはり特に日本企業で働いている多くの人は、ビジネスに対する考え方を根本的に変えていく必要があるのではないか?日本市場向けに、日本の消費者が好みそうなものを目利きする技術など、遅かれ早かれ技術として陳腐化していくことは目に見えている。日本の若者が世界に羽ばたいているのをみて、そして、そのプロセスに私のような世代のオジサンのスキルが殆ど関与出来ていなさそうなことを見ていて、つくづくその様に思う今日この頃である。

正しい自己分析と課題の優先順位付け

自社のマーケティングのレベル感を理解できていない会社が多い

私は酷い人見知りで、知らない人に自分から話しかけるということが非常に苦手な性格なので、基本業界団体の集まりとか、異業種交流会とか、ネットワークを広げるような場に参加することを25年の社会人人生で殆ど行ってこなかったし、逃げ回ってきた。実はそれは、これまでマーケティングという自分からものを売るのではなく、お金を払ってサービスを買うという立場をずっと続けられてきたから出来たことであり、自分でその様な会社・ポジションを選んできたという背景もあり、特に不自由なくサラリーマンをしてきた感じである。しかし、50歳を前にして無謀にも独立してみると、そもそも自分でお客さんを見つけないとお金が稼げないという現実に直面し(別に凄く困っている分けではないが)、これまで逃げ続けてきた、自分の会社外の人と積極的にお付き合いをして、ネットワークを広げないといけないなと少しだけ思うようになってきた。

という理由もあって、先日とあるマーケターばかり200人集まるイベントに参加して、2日間に渡り100人近くの企業マーケターやマーケティングサービスの提供事業者の方とお話する機会があったのだが、そこで大小様々な規模の会社のマーケターと話しながら改めて思ったことを今回は議論したいと思う。

それは、「自分の置かれている状況を正しく理解する」ことの重要性についてである。

相変わらず、物凄く当然のことを言い出したと思われるかもしれないが、今回いろいろな事業会社のマーケターの方と話していて、この当然重要だと思っている話を、正しく実行する事が意外と難しいということが理解できた。話を聞いて私が感じた理由の主なものは、下記のような感じである。

  • 自分の会社に関する情報しか持っていない
  • 社内に専門性の高いマーケターがおらす、そもそもどのように自己評価してよいかが分からない
  • スキルの低いマーケターを教育する仕組みが社内になく、社内でも孤立している

自分の会社に関する情報しか持っていない

まず、私がもっとも多く耳にしたのは、自己を正しく評価するための相対的な評価軸が存在していないという状況に陥っている企業が相当多いということである。これは、問題意識を持って外部の情報を入手する方法を考えないと、日々の業務の中で得られるデータは基本自社のもののみなので、自動的にこの状況に陥る。もちろん、それぞれの事業会社は営業機密の関係で外部の方とすべてのデータを共有する事は出来ないため、外部の会社の詳細な情報を入手することは出来ないが、工夫次第では自社と他社の状況を相対的に比較し、自分の現在の立ち位置を確認することは可能である。幸い、私がお話しした方々はこの点に問題意識を持ち勉強に来られた方がほとんどであったと思うが、意図的にそのような機会を創出することは重要であるとあたらめて感じた。

社内に専門性の高いマーケターがおらす、そもそもどのように自己評価してよいかが分からない

勉強熱心であったり、ネットワーキング好きなマーケターだったり、理由は様々だが、 情報の重要性は理解して一所懸命情報収集して、実は相対的に自己評価する情報は持っているのに、自社の立ち位置が理解出来ていなさそうな会社も結構な割合でいることが分かった。その様な会社のマーケターと話していて分かるのは、多くの場合、残念ながら情報が宝の持ち腐れになってしまっていて、その情報を正しく活用して自己診断を行えるスキルがないと思われるケースが多いように感じるということである。自分・自社にスキルが足りないことが分かっているから、情報収集の場に参加して、勉強しようとしているのであるが、大抵の場合、その様な場で共有される美しい成功事例と自社の現状の間にどのような差異があるのかを理解できず、自分たちのレベルが低いという事実以上の自己評価が出来ない状態で立ち止まってしまっているように話をしていて感じた。

スキルの低いマーケターを教育する仕組みが社内になく、社内でも孤立している

社内にスキルの高いマーケターがいないことに起因するのであるが、より根本的な問題は、そもそもスキルの高いマーケターがいないだけでなく、その状況を改善するためのマーケター育成の仕組みも存在しないため、情報があっても自己評価出来ない状況が完全に固定化してしまっているケースも多く見受けられる。典型的な例が、「普段は営業をしているが、マーケティングもしなければいけないという話になり上司に指名されて、営業と兼務しながらマーケティングも担当している。」みたいなパターンで、話を聞く限り、おそらく社内で〇〇さんにマーケティングをお願いしていると丸投げされたうえに、誰も助けてもくれず、孤立していそうな雰囲気なかたに、それなりの数お会いした。

正しい自己評価が施策の優先順位付けを正しく行うスタートライン

いずれのケースにおいても、「自分の立ち位置」が分からないと、例えば外部のカンファレンスで発表されているような成功事例の華やかな話ばかり聞かされると、「あれも出来ていない、これも出来ていない」という感じで、自分が出来ていない事ばかりが目についてばかりで、自信をどんどん失っていくということになってしまう。

しかし、よくよく話してみると、例えば、リアル商品をリテール経由で販売しているメーカーのマーケターの人と話していて、デジタルマーケティングの効果検証が出来ていないから自分たちは全然出来ていないみたいな悩みを聞かされたりする。そのリアクションとして、私から「いやいや、それは御社は確かにマーケティングのスキルレベルに改善する余地は大きくあるかもしれないが、いま仰った悩みは、マーケティングで有名な外資系のグローバル企業だって出来ずに悩んでいるんですよ!」と返答したりすると、暗かった顔が一気に明るく、勇気づけられたように変化したりするのである。

この事例で分かることは、そもそも現在の技術で実現可能なことと、自分たちのスキルが低くて実現できていないことの切り分けが出来ていないことが仕分け出来ていないという事である。これが出来ないと、そもそも技術的に不可能なことまで自分たちがちゃんとで出来ていないと不要な自信喪失状態に陥ってしまい、現状の何が問題で、どこから手を付けると現状から右肩上がりに改善していけるのかが分からなくなってしまうのである。

自分の立ち位置を理解できるマーケティング体制整備と情報収集

という悲しい話にならないために、「自分の現状の立ち位置を正しく理解する」ための阻害要因をどのように排除していくのかを考えてみたいと思う。

まず、大前提として、マーケティングのスキルと知識が足りていないのであれば、外部のコンサルティングでも良いし、広告代理店でも良いし、先生役になってくれる人を探すというのが大前提である。何度も申し上げているが、マーケティングという専門性の高い領域の業務を独力で身に着けられる(それはなんとなく出来るではなく、トップレベルのパフォーマンスを出すという意味で)と考えるのは、非常に成功確率の低い選択であると言わなければならない。私の感覚では、1/30~1/20程度の確率である。これを避けるためには「教えなければ人は育たない」でも述べたように、OJTでマーケティング業務を整える方法を考えなければいけない。この文章を読まれている方が、マーケティング組織を構築する責任を持つマネジメントの方であれば、現場で孤立している社員を育成する環境を作ることは当然の義務であるし、現場で苦しんでいる現場の方であれば率直に一人では限界であることを告白すべきだと思う(後者については、人間関係にもよるので、個々で判断してもらいたいが)。

個人的には、特にコンシューマー向けのビジネスを拡大するにあたって、マーケティングの機能が一定以上のレベルで社内に存在しないことはリスクでしかないと思うので、営業マンを一人減らしてでもミドルマネジメント/プレイングマネージャーレベルで良い人材を採用すべきだと考えるが、最初から1人月分の業務量が出せないというのであれば、骨格作りの間だけ、外部の経験者のサポートを得ることなどを考えてみても良いと思う。いずれにしろ、社内に自社のマーケティングの現状と課題を分析できるだけののスキルと知識を持たないと、どの方向に進んでいけば良いのかの認識が出来ないので、コストをある程度捻出してでも、環境の整備は行うべきであると考える。

この環境が出来たら、いよいよ外部からの情報収集と、その情報と自社の現状を比較することによって、自社の立ち位置を把握するステップへと進む。ただ、注意しなければいけないのは、外部の話を聞きに行く前に絶対に行わなければいけないのは、自社のマーケティングにおける課題の深堀分析である。「売上が目標に達していないのであれば、それは認知度が足りないのか、商品・サービスの理解の浸透が足りないのか、購入・利用を後押しする販促が足りないのか?」のようなFull Funnel的な視点で考えたり、一歩進んで、「認知が足りないことは分かっているので、認知向上の施策を行ってみたが、その費用対効果が把握出来ずに困っている。少なくても売上の推移を見る限り効果があるようには思えない。今のまま続けていてもよいのか?」みたいな具体的に現状行っていることに関する疑念であったり、問題・課題だと思っていることは思いつく限り書き出してみるのが良いと思う。このアウトプットの作業は、自分が考えていることを視える化して、整理するために非常に重要な準備である。

ここまで準備が出来たら、満を持して外に目を向けてみよう。事前に準備した課題リストは、例えば、多くのセッションがあるようなカンファレンスであれば、自分の課題の答えが見つかりそうなセッションを選択するのでもよいし、ネットワーキングの場であれば、会話する相手に質問するリストとして活用してみるのでもよい。

この3ステップを正しく行えば、少しずつ自分、自社の課題が鮮明になり、それを解決するためのヒントをもらうこと、もしくは自分がダメなのではなく、現時点のテクニカルな限界であることを理解して、他の課題の解決にリソースを割くことが正しい優先順位付けであると理解できるようになるであろう。

普段の業務の中で外部情報を収集するアイディア

参考までにここで私のこれまでの現場での実践法、つまり、どのような方法で、外部の情報を入手していたかをいくつか紹介してみたい。

一つ目は、結構誰にでも出来る方法であるが、中途採用の面接の場を使うことにしている。採用したいポジションに関する課題について、面接を受けに来た人とディスカッションをするのである。もちろん面接なので、第1の目的は面接相手のスキルの把握であるが、自社が抱えている問題に対するソリューションの提案内容などを聞き比べて、「業界でトップクラスの代理店でも、実はこのレベルのことに同様に悩んでいるのか?」とか「マーケティングのトップ企業であると世の中で認識されている〇〇という会社でも、この課題の答えは持っていないいんだ」とか面接相手のキャリアとその受け答えの内容から、自社の課題が世の中的に解決済みの話なのか、または、マーケティングのトップ企業でも同じく抱えている課題なのかが分かったりする。

二つ目の方法は、王道ではあるが、外部の代理店やGlobalのメディア企業の担当者と現状の課題をディスカッションして、彼らの最新の情報をフィードバックとして入手するという方法である。このプロセスにおいても、1つ目の面接の話で得られる情報と同様、自分たちの課題について情報が集積している企業において解決済みの課題なのか、継続的に模索している課題なのかの分類が出来るようになる。

この2つの方法で良い成果を出すためには、事前準備で触れた、自社の課題の洗い出しと整理が必須であることはお判りいただけるであろう。自己の課題をどれだけクリアに把握し、それがなぜ課題となっているのかの背景まで理解したうえで、ディスカッションの相手と話すことによって、モヤっとした返答ではなく、自己の課題に対する明確な返答を得ることができ、自分の立ち位置も分かるという分けである。逆に言えば、深く考えていない、「なんか最近集客量が減っちゃって困っているんですよね・・・」のような、何の分析も加えられていないような課題認識では、まともな情報は得られないと考えたほうがよい。

三つ目方法は、部下がいる場合は、部下に積極的に外部の情報収集の機会を提供し、そのリターンとして、上司向けでなく他のチームメンバー向けの意味も含めてレポートを書かせて、カンファレンスなどにいかなくても情報が集まってくるようにする仕組みを作ることである。特に、ある程度の組織をマネジメントするポジションになると、1日とか半日とかをつぶして外部のカンファレンスに行ったりするのは効率が悪かったりするので、組織の仕組みとして外部情報の収集メソッドを確立出来ると、自分自身のUpdateを継続するのに大いに役立つ。

自社の課題を世の中の成功事例と比較して整理する

このように、深い自己の課題分析と外部情報の収集を組み合わせられると、自社の課題リストを次のように整理することが出来る。

①短期的に解決すべき課題

世の中的に解決方法が提示されており、自社で実践されていない課題である。つまり、他社の事例を正しく模倣出来れば解決できる可能性が高い課題である。短期的に成果が出やすい可能性が高いので、この象限に含まれる課題はROIの期待値順に並べ替えて順番に課題解決に取り組むべきである。

②PDCAによる精度向上

世の中、自社の双方で大きな課題として認識されていないということなので、オペレーション精度の向上に焦点が当たる領域であるといえる。ただ、皆さんご存じのように、PDACの高速回転こそが中長期的な自社の強みの源泉であるため、この領域を間違っても軽視してはいけない。

③発見されていない課題

世の中的に解決されていない課題と認識されていて、自社で問題になっていないのであれば、それは自社の課題洗い出しが不十分か、まだその課題にぶつかるレベルまで到達していないかのどちらかである可能性が高い。稀に、奇跡的に無意識に解決できているということもあるかもしれないが、本当に稀だと思う。課題として認識されると、④に自動的に移動する

④長期的に解決すべき課題

世の中的にも解決方法が定まっていない課題であるため、①の課題が山積しているのであれば、ひとまずは棚ざらしにしておいて、優先順位を下げておくべき課題である。ここにチャレンジすることに大きなリソースを割いてよいのは、①のリストが一掃され、②に特化出来ている企業である。

このように整理が出来ると、例えば以前例示した「リテール流通中心のメーカーが自社のデジタル広告と商品売上の関連性が把握できない」という悩みは、私の認識では④に分類されるため、この点で悩んだり、自信を喪失する必要は必ずしもないということがお判りいただけるのではないか。

それよりも、このような企業のマーケターは、同種のリテール商材メーカーのトップマーケティング企業がかつて①でどのような課題にぶつかり、現状で解決して②のPDCAサイクルを回しているのかまずは必死に学んで実践する方が圧倒的に効率が良いということになる。

このBlogにおいて、私はデジタルマーケティングの成功法則の大前提はPDCAの高速回転であると繰り返し申し上げていて、その考えを変えるつもりは全くないのであるが、この手法のおそらく最大の問題点は、本当にそれだけをやり過ぎてしまうと、思考がどんどんミクロになってしまい、俯瞰的な視点で自社の課題を見られなくなるという事である。

ビジネス用語ではベストプラクティスといい、日本の古典芸能では守破離というが、そもそも成功している人のマネをすることは、成功への近道であることは間違いないので、人の苦労は上手く利用するのがいいと思っている。それを上手に行うためには、まず自己を知り、世の中の先達の苦労を学び、自分に上手く転用することが何よりも大切である。それを上手に行うためには、今回ご提案した4象限に自社の抱える課題を一度整理してみるのは有効だと思う。そして、実践するためには、内に内に深堀する思考をたまには解放して、外に目を向けてみることも重要である。個人的には内9:外1位のバランスで良いと思うが、この1の余地を残しておくことは非常に重要である。

そんな気付きを一気に100人位のマーケターと2日間で一気に話をするという機会から得られたのは、私にとっての大きな収穫であった。

凡事徹底とPDCAの違い

何でもないことを徹底すること

このブログで私はPDCAの高速回転の重要性を嫌になるくらい繰り返して来た。実はそれと似たような言葉でビジネスの成功法則的な話でよく使われるワードに「凡事徹底」という言葉がある。辞書で凡事徹底を引いてみると次のような感じである。

”なんでもないような当たり前のことを徹底的に行うこと、または、当たり前のことを極めて他人の追随を許さないことなどを意味する四字熟語。”

出典Weblio

最近は大谷選手のパフォーマンスが振り切れ過ぎているので、若干印象が薄くなっているが、大谷選手が登場するまでMLBで最もインパクトのある成績を残した日本人選手であるイチロー選手が座右の銘にしていたらしく、それでも有名になった言葉でもある。日々行う一つ一つのことはそれ程特別な事ではなく、それを徹底的に行い、他人の追随を許さないという意味では、私の大好きなPDCAと似ているのであるが、個人的には余り好きな言葉でなかったりする。ちなみに、私自身は部下に話すときに口にしたことはおそらくない。

では、凡事徹底とPDCAの違いは何であろうか?それは、徹底する対象の「何を」を選ぶプロセスが、凡事徹底というスタンスには存在していない事なのではないかと思っている。そして、この「何を」を正しく選べないと、この凡事徹底という仕事に対するスタンスは、上手くいかないだけでなく、障害となったりするケースまである。

PDCAというのは、Plan→Do→Check→Actionの4つのステップで構成されるわけであるが、凡事徹底というのは、Doにフォーカスして、Doの精度を徹底的に極めようという事であると私は理解している。もちろん、PDCAを回す際に、Doをいい加減にやってしまうと、CheckとActionの精度も当然落ちるので、PDCAの高速回転による改善活動のスピードが落ちることになる。しかし、PDCAで重要なことは、4つの段階のそれぞれの精度をあげることで、対象の課題を改善、解決していくことであるので、Doの部分だけ精度向上する事だけではそれ程意味がないということになる。

凡事徹底が成功する2つのパターン

では、なぜ「凡事徹底」という言葉がもてはやされるのであろうか?可能性は2つのパターンであると思っている。①凡事徹底といっている人がそれなりに優秀で意識/無意識に関わらずP・C・Aも正しく行っており正しく「何」を選択出来ているパターン。②企業や部署のオペレーションが長い年月のPDCAの末に確立しており、P・C・Aに改善の余地が少なくDの精度を徹底的にあげることが成果に直結する可能性が高いパターン。私は、「凡事徹底」というスタンスを組織に強固に浸透させ(それが徹底出来ない人はそもそも凡事徹底などと部下に言う資格がない)、高い業績をあげているパーンは、この2つのパターンのいずれかであると思う。

まず、①の実はPDCAをやっていますというパターンについて見てみよう。おそらく、冒頭で例にあげたイチロー選手などはほぼ間違いなくこちらのパターンに属する凡事徹底であると思う。なぜなら、若いころからP・C・Aもなく、Doだけ極めた人が、誰もマネできないような振り子打法などというユニークなバッティングフォームになるわけがない。必ず、PDCAの限りない繰り返しの中で、誰も到達しえなかった技術の領域に達し、日米通算4367安打という前人未踏の記録を実現したはずである。もし、彼が凡事徹底が重要といって、チームに決められた練習メニューを誰よりも精度高く愚直に行っただけでは、絶対にあのような成績を残すことは出来なかったと思う。このようなスタンスの人が凡事徹底を協調する場合は、D以外のP・C・Aは通常レベル以上に精度高く高速で回転させている前提で、その中でもDの精度を徹底的にあげることが、超一流の世界の競争において差を分けるということを言っていると理解すべきであろうと思う。

一方で、②の長年のオペレーション経験において、PDCAによる改善余地が少ないケースというのは、当然新規事業などではなく、歴史と実績のある事業などで見受けられるケースであるといえる。このケースにおいては、競合との差別化要因はDoの精度であることが当然多くなるので、Doに特化した「凡事徹底」が強調されるという分けである。ぱっと思いつく例としては、私はやったことがないが、大手ハンバーガーショップの店舗オペレーションの話をメディア等で見ると、おそらくDoの徹底的な精度向上による生産性Upが店舗のサービスクオリティを決定する重要要因であるため、実際に言われているかどうかは知らないが「凡事徹底」系の現場であるのだろうと想定される。

間違った凡事徹底

ここまでで、「正しい」凡事徹底の理解と、事業現場への適用方法を見てきたが、私がこの言葉を重視せず、PDCAという言葉を重視する理由は、この「正しい」理解の基に運用されずに、間違った凡事徹底が行われる現場を多く目にするからである。

「正しい」凡事徹底を理解いただけている読者の方にはすでに予想できると思うが、凡事徹底が上手くパフォーマンスしないケースというのは、Doしか現場もマネジメントも見ておらず、P・C・Aの状況を正しく評価・分析出来ていない時に発生をする。

上手くいかない時に発生しがちな失敗は、凡事徹底するDoの実施中にPDCAがきちんと回っていないために、そもそも現場に何故そのDoの徹底を行い、どの方向で精度向上を図っていけばよいのかが理解されていなかったり、正しくディレクションがされていなかったりする事である。

例えば、次のような話を身近で効いたことはないであろうか?

ある営業部門が営業人員一人当たりの売上額の最大化を行うためにデータを分析したとする。その結果、一人当たり売上高が高い上位〇%の人材のデータから、一人当たり売上高と一人当たり月次のアポイントメント件数の間に相関関係があることが分かった。このため、この営業部門は、各営業人員に月次のアポイントメント件数の目標値を設定し、その達成を重要KPIとして定めることとした。

 ここまでは、あくまで架空の事例なので、データ分析の精度は大雑把であるが、ロジックとしてはそんなに変なことはしていないような気がする。では、少し時が経って、それから2年後の同じ営業部門である。

 この営業部門は、非常に「数字にこだわる」チームで、部署で決められたKPIの達成を重視して部署運営がなされている。重要KPIは一人当たり売上額とそれを実現するための一人当たりの月次アポイントメント数の目標達成である。この2年間の経験から、月次アポイント数を達成するためには、徹底して顧客リストに対して架電をすることが重要だということが分かっている。このため、営業スタッフ、特に、一人当たり売上高が未達成の人員には徹底してアポイント獲得の架電数を増やすように指導している。この2年間で架電数は倍に増えており、アポイント件数も20%増大した。しかし、一人当たり売上高の改善はわずか3%で計画値を大幅に下回っている。

この事例において、何が問題なのであろうか?まず、2年前に一人当たり売上高とアポイントメント件数の連動性をデータ分析の結果発見して、重要KPIとして設定したところまでは、それ程おかしなことではなかった。しかし、この2年間で行ってきたことを見てみると、その成果は思った通りに上がっておらず、計画から改善幅は大幅に下回っている状況である。では、何が問題であろうか?

この2年間で起こったことは、アポイント件数というKPIを達成するために、それを増大させるサブKPIとして営業人員の架電数という行動KPIを分析の結果設定した。そして、そのサブKPIをKPI管理し、架電数を2年間で倍に増やすことに成功した。しかし、アポイント数は20%増にとどまり、一人当たり売上高は3%増にとどまっている。つまり、何が起こっているかといえば、架電あたりのアポイント獲得件数は大幅に悪化し、アポイント当たりの売上高も大幅に悪化しているという事である。

凡事のシンプル化と行動量管理

このような話を文章で論理的に書いて説明すると、一定レベルの論理的思考力がある人であれば、こんな稚拙なオペレーションの会社があるのだろうかと思ってしまうかもしれないが、私が知る限り、このような話に似た状況に陥っている企業や部署は意外と多いと思っている。そして、その最大の原因が「間違った」凡事徹底にあることが多い。

今回のケースで、当初凡事徹底の対象となるKPIは月次のアポイント件数最大化であった。その指標が一人当たりの売上高と連動性があるという統計データがあったため、この判断自体には問題はおそらくないと思う。

しかし、2年間運用する中で2つの変化が起こっている。一つ目の変化は、架電数というサブKPIが現場において設定されたこと。二つ目の変化は、アポイント件数と一人当たり売上高の相関性が低くなったことである。

まず1つ目の架電数というサブKPIについて考えてみよう。発想として、ひとつのKPIを実現するために、要素を因数分解して、サブ的なKPIを設定すること自体は全く間違っておらず、寧ろロジカルな話である。この場合は、アポ件数=架電数×アポ獲得率という因数分解を行い、架電数をサブKPIとしたわけである。ただ、架電数を目標値として設定する場合、因数分解の数式を見れば一目瞭然な大前提がある。アポ件数と架電数が連動して増えるためにはアポ獲得率が一定でなければいけない。しかし、今回のケースでサブKPIとして設定されているのは、架電数のみである。実はここに凡事徹底の罠がある。凡事徹底という言葉が好きな人にありがちなのであるが、凡事を非常にシンプル化・簡略化しようとする傾向にある。また、凡事の結果を簡単に計測しやすいものにしたがる傾向も強い。そこで出てくるKPIが組織の構成員の行動量をカウントする行動KPIである。この場合は、架電数が行動KPIである。この思考プロセスをたどると、組織において、KPI(アポ件数)=サブKPI(架電数)という間違った方程式が出来上がり、より現場マネジメントがコントロールしやすい行動KPIである架電数の方を凡事と定義し、コントロールするようになるわけである。多くの場合、固定値として暗黙的に見過ごされたアポ獲得率は短期的に大きく変動することはないので、アポ件数と架電数の連動はある時期までは連動することも少なくない。このため、架電数を増大させるようなマネジメントをすることが正しいと考えるようになる。結果的に電話をかけるという誰でも出来る「凡事」を愚直にやれば売上が上がるというような間違ったロジックが組織に浸透してしまうわけである。

連続した微細な変化に気が付けない

そして、このような状況が常態化してしまう理由が、2つ目の変化であるアポイント件数と一人当たり売上の相関性の悪化が見過ごされてしまう事である。

この文章では、2年間の間を端折って見ているので、この変化量は明らかであるが、例えば2年間24か月分の変化を24分の1ずつ前月比とかで見ていると、ひと月当たりの変化量が小さいので、そこまで大きな変化として認識されず、事業管理のロジックに問題があるのではなく、日々の現場のオペレーションに問題があると誤解されてしまったりすることも少なくない。よく経営会議などで、「目標達成に向けた現場の粘り強さが足りませんでした」みたいな精神論が語られたりするのを聞いたことがないだろうか?私の経験上、前月と今月のパフォーマンスの違いで、今回でいえばアポイント→売上の相関係数の変化が明確に認識されることは難しかったりする。なぜなら、それが日々のオペレーションの精度の悪化による変化なのか、そもそも長期的なトレンドとしての変化なのかが、直近の数字だけをみているとわかりにくいからである。そうするとロジカルな改善ポイントが見つからないので、精神論か、現場のオペレーションを原因にするしかなくなるわけである。そうするとまたやってくるのが凡事徹底である。数字にこだわり、当たり前のことを当たり前にすれば、今月目標に未達であった数%の売上は実現できたはずであるとなるわけである。

P・C・Aを組み合わせプロセス全体の健全性を確保する

このように見てくると、PDCAに比べて、凡事徹底というのは誤解を生みやすい、間違った運用になりやすい言葉であることがお判りいただけるのではないだろうか?Doに集中しすぎることによって、Doが当初の想定とずれてきたり、機能しなくなったときに修正が効かなくなるリスクが高くなるのである。私はこれを「凡事徹底による思考停止」と読んでいる。上で述べたような架空の事例における2年間は、正に凡事=架電数最大化を愚直に信じてしまった思考停止が産んだ悲惨な状況である。

こうならないためには、常にP・C・Aをセットで行い、今行っているDoが当初の想定通りWorkしているのか、もし、想定通りに事が運んでいないのであれば、何が原因でどのように改善しなければいけないのかを考えることが重要なわけだ。

凡事徹底という姿勢は、Doのパートの精度向上という意味では素晴らしい金言である。同じような言葉に、「神は細部に宿る」とか「Devil is in the detalis」のような言葉もあるが、要は、一つ一つ丁寧にやるみたいな視線を美徳とする感覚が結構もてはやされがちである。しかし、イチロー選手の例でも述べたが、ほぼ確実に成功している人というのは、Doの精度の向上と同時に、P・C・Aのサイクルも必ず同時に行っている。この点を理解せずに、凡事徹底という美しい言葉を真に受けると、長い時間軸で俯瞰してみると、今回ご紹介したストリーのような状況に陥るわけである。

繰り返すが、言葉には罪はないし、その姿勢にも全く誤りはない。しかし、必ずその凡事がPDCAサイクルのいちパートであるということは忘れないでもらえればと思う。

自由とクリエイティビティ

コロナ禍でなくなってしまった生活習慣

どうしても大型犬が飼いたくて、マンションでは無理なので一軒家に引っ越して犬を飼いだしたのが2020年12月であったが、その決断をしたのはその一年前であるので、家を探し始めた時はまだコロナ禍は始まっていなかった。このため、原因が犬を飼い始めた事なのか、コロナ禍のためなのかは切り分けられない(というかダブルだと思う)のだが、この2020年以降の4年間で私の生活で最も変わったことのひとつが、学生時代からの最大の楽しみであり、ほぼ唯一の趣味的なものであったJazzのライブに行かなくなってしまった事である。

切っ掛けは高校のバンドをやっている友達の一人が、よりテクニックのあるベーシストを追い求めたら1980年代に流行ったFusionというジャンルのジャズにたどり着いてしまい、その影響を受けて聴き出したのだが、大学生の時などは使えるお金の殆どをタバコ代かJazzのCD代に使ってしまうような感じで、1940年代以降のあらゆるJazzを聞きまくるという30年間位を過ごしてきた。そのため、海外旅行の行先といえばNew Yorkばかりになってしまい、長い休みが取れればNYに行って、昼間は美術館とかをぶらぶらしながら、夜は毎晩NY中のライブハウスの出演者情報を見比べて、今日はここ、明日はあちらみたいな感じで、ライブを見まくるみたいな事ばかりしていた。結婚してからも、最初は興味がなかった奥さんを無理やり教育してJazz鑑賞に付き合ってもらえるようにして、月に数回は日本でもアメリカに住んでいた時にもライブを聴きに行くという生活をしていた。

それが、コロナ禍になって、そもそもライブという形態のエンターテイメントが一次的になくなってしまい、復活後もなかなか海外の有名ミュージシャンが来日できないという状況になり、数少ない楽しみを味わえない3年間位の期間を過ごしたら、すっかりJazzのライブに行くという生活習慣がなくなってしまった。

Jazzってこんな音楽

という、私のどうでもよい生活の変化の話は本題ではない。今回の話は、Jazzという音楽を切っ掛けにして、クリエイティブなものを作ることについて考えてみようということである。

漫画の「Blue Giant」などを通じて、最近は若い人も少しJazzに興味を持ってもらえるようになって、うれしい限りであるが、それ程詳しくないかたもいると思うし、そもそもJazzって小難しい音楽だと思っている人もいると思うので、超簡単にJazzという音楽がどういうものなのか説明する(詳しく知りたい方はこちら

Jazzが、ロックやポップスなどの音楽と最も異なる点はアドリブ/即興演奏が重視されている点である。演奏をするにあたって、譜面にかかれている決まったパートは演奏の最初と最後の一部分のみであり、間の大半の部分はバンドメンバーが順番にアドリブで演奏して、ひとつの曲の演奏を完成させる。そして、このアドリブ演奏にプレイヤー一人一人の個性が表現され、クリエイティビティが発揮されるのである。このため、所謂スタンダートと呼ばれる、多くのミュージシャンが演奏するような定番の楽曲であったとしても、プレイヤー、バンド毎に全く異なる曲といっても良いほど違う演奏になる。

超簡単に説明するとこんな感じでJazz愛好家は、様々なミュージシャンの即興演奏を聞き比べながら、この人は好き、この人は凄いなどなど思いながら自分の好みのミュージシャンを決めて追っかけたりするわけであるが、私はJazzを聞きながら考えることのひとつが自由とクリエイティビティの関係である。

クリエイティブを発揮する方向性

一般的にクリエイティブな事を考えてくださいと言われると、自由であれば自由であるほどクリエイティビティが高いものが生まれると考えられがちである。Jazzであれば、それを追求して行きついてしまったFree JazzというタイプのJazzが存在するのであるが、このタイプの音楽というは確かに自由ではあるが、少なくても私のような音楽の素人にとっては、何をやっているのか理解出来ず、本当にクリエイティビティが高いのかというと個人的には疑問である(例えば、こういうもの)。もちろん、クリエイティビティが高いかどうかという評価には個々人の価値観や趣味趣向が関わるため、絶対はない。事実、リンクを張ったアルバート・アイラ―というミュージシャンは、私のようなド素人にはほぼ理解不能であるが、Jazzの歴史において最高峰のサックス奏者であるジョン・コルトレーンが非常に高く評価していたミュージシャンである事で知られている。ただ、これはほぼ間違いないと思うのであるが、常人が理解するには余りに抽象化されすぎているので、そのクリエイティビティを多くの聴衆に理解してもらうことは難しい種類のものになってしまっているということである。

ではなぜ、自由度が高すぎると、クリエイティビティを発揮することが難しくなるのであろうか?私はそれはクリエイティビティを発揮するディレクションの選択肢が多くなりすぎて、どの方向にクリエイティビティを伸ばしていけば良いのかという尖がるポイントが決められなくなってしまうからだと思う。例えば音楽でいえば、メロディとハーモニーとリズムが主要な3要素であるが、Jazzの即興演奏というのは、ハーモニーとリズムは約束事として事前にある程度決めておいて、メロディの部分で自由度を発揮して、そこを突き詰めるというクリエイティビティを伸ばす方向性が決められているのが一般的である。このため、他のバンドメンバーも即興演奏しているプレーヤーの演奏に破綻せずに反応し、音楽を形作れるし、聞いている聴衆も、バンドの音楽としての心地よさみたいなものをベースに感じながら、アドリブ演奏にある程度集中して耳を傾けることが出来る。しかし、先ほどのFree Jazzの場合は、ハーモニーとリズムの約束事も取っ払ってしまっているので、少なくても私のような素人には、いったい何を聞けばよいのかが全く理解できないのである。また、この状況が正しいのであれば、聞き手として理解できる人が限られてしまうということは、その様なタイプの音楽の作り手になりえる人間も相当に限定されてしまうということを意味するので、どんなに素晴らしいものであっても、非常にニッチなものから抜け出せない可能性が高くなるということである。

知識、経験があるから新しいものが考えられる

と、大半の人が興味がないであろうJazzのお話をなぜ永遠としてきたのかといえば、この話って、マーケティングとかビジネスの現場でも同じようなことが言えるのではないかという事である。

例えば、私が今年の4月からサラリーマンをやめて新しいビジネスを作ろうと考えた時に、論理的には私には無限の選択肢が広がっている。別にデジタルビジネスでなく、マーケティングでないものを選択しても全く問題はない。例えば、それこそ今年からミュージシャンを目指したって全く問題はないはずだ。しかし、可能性としては否定しないが、それなりに成果を出したいと考えればおのずと選択肢は狭まってくる。なぜなら、周りの競合者たちとの相対的比較において、ゼロからのスタートではなく、選択肢を間違えると大幅なマイナスからのスタートになってしまうし、そもそも現時点での差をこれから数年で埋めること自体が不可能な可能性が多分にあるからである。

と考えると、私が20数年関わってきた、デジタルビジネスであったり、マーケティングという領域で何かをやろうという話になるわけであるが、では、私が自分がこれからやることをデジタルビジネス・マーケティングに絞った瞬間にクリエイティビティを開拓する余地などなくなってしまうのであろうか?

私は答えはNoだと思っている(そう信じている)。もちろん、単純に既存の広告代理店などと同じサービスを行おうと思うのであれば、よほど独自の手法を考えつかない限り、クリエイティビティの領域よりも、オペレーションの精度のような部分での競争をしなければいけなくなる可能性が高い。特にパフォーマンスマーケティングの領域においては、AI化がどんどん進んでおり、人間が介在できる領域がどんどん小さくなっていっているため、ちょっと工夫するくらいでは、クリエイティビティを発揮できる余地は本当に小さくなっている。もし、このようなエリアに新規参入して成功しようと思う場合は、おそらくクリエイティビティの発揮というよりは、オペレーションの精度をどれだけ上げられるかの方が競合企業との差別化をするポイントとなってくる。やるかやらないかは別にして、もちろんその領域で勝負しようと思えば私にも可能であるかもしれない。

ただ、あらゆるアイディアが、オペレーション精度のみで勝負しなければいけないのかと言われれば、私はそうではないと思っている。デジタルのサービスはこの20数年間で目まぐるしいスピードで発展してきたが、世の中のあらゆる問題を完璧に解決したわけではない。もちろんそんな状況になることはおそらく永遠にあり得ない。詳しくは申し上げられないが、いろいろな人とお話をしたり、世の中で成功しているサービスを見たりしながら、自分のやりたい様々なアイディアが浮かんできたりする。もし、私がデジタルビジネスのアイディアを考える事が、他の人よりも得意であるとすれば、おそらくそれは20数年に渡り、相当な幅のデジタルサービスの開発や運営に直接、間接を問わず関わってきたという蓄積がそれなりにあるからだと思っている。そのビジネスの領域を知っていればこそ、これまでの歴史的変遷や、成功したものだけでなく、失敗して消えていったサービスの事例、反省などを土台にして、新しいアイディアを考えることが出来るのだと思っている。

逆に、新規事業の検討をするために、例えば未経験の業界のリサーチをして、その過程でいろいろアイディアを考えていると、最初のころは大抵は、「こんなアイディアどうだろう?」と提案すると、大抵の場合は「そういうサービスはすでにあります」とか「そのアイディアは〇〇社がすでにトライして失敗しました」みたいな話になることが多くなる。つまり、素人の浅知恵的なものというのは大抵の場合、本人は凄い良いアイディアだと思っても、多くの先人が通った道であることが多いのだ。つまり、何かを新しく生み出すということは、ある程度、土台となる知識とかスキル、経験のようなものが必要であるという点だ。もし、その様なことを学ばずに、自分で思いついたことをクリエイティブだと信じて全部試していたら、おそらく時間がかかりすぎて、成功にたどり着く前に歳を取ってしまうか、会社であれば資金が足りなくなって、事業をやめなければならなくなってしまう。

イノベーションを起こす方法

つまり、何かを新しく生み出そうとするときに、考える範囲を限定するという事には意味があるということになる。そして、その理由を考えることは、どうすればクリエイティブに新しいものを生み出す、ビジネスで言えばイノベーションを起こすことを可能にするのかのヒントになるはずである。

この辺の話はイノベーションマネジメントという経営学の分野で研究されている領域なので、興味のある方はその辺も調べてみたら良いと思うが(私の知識は大学院生であった25年前位でとまっている)、ここでは、私なりの仮説をご紹介できればと思う。

①考えるべきフレームワークが存在する

一つ目は、考えるフレームワークを明確にしやすいという事である。先ほどの素人の浅知恵の話ではないが、どの業界にもその業界の問題点を解決して業界をよくしようであるとか、もっと下世話に、一儲けしてやろうとか考えている人はいるものなので、それなりに歴史のある産業、業界であれば、業界内の問題点はある程度明示され、その解決の方法などは、歴史の中である程度は検討されているものである。このため、その業界をより大きく発展させるアイディアというのは、普通に考えればその延長戦上にある可能性が高い。例えば、良くある話であるが、ある業界のビジネスが成り立つ要素がA、B、Cの3つがあるとして、既存企業の改善の方向性が、AとBを所与の条件として固定し、Cの効率性を改善する事に集中していたとする。そんな時に、業界の新参者が、いやAをこう変えててしまったら、そもそもCももっと改善するのではみたいなアイディアを言い始める。それが大成功して、老舗の産業でスタートアップが大きく成長する例などはデジタルビジネスの世界で多く見てきた。Jazzの話であれば、コードとリズムを固定してメロディをアドリブで工夫することに全力を注いでいるところに、誰かが「いや、リズムを変えてしまう方が個性が出しやすくない?」みたいな話を言い出したりすることである。事実、Jazzの歴史においては、ブラジル音楽のリズムを取り入れることでボサノバが生まれ、ロックのリズムを取り入れることでフュージョンというジャンルが発展した歴史があったりする。

いずれにしても、重要なのはコード、リズム、メロディではないが、考えるうえでのフレームワークがある程度定まっていることで、考えるべき要素の整理が出来、そのどの要素を動かし、どの要素を変えるのかというように、深堀して考える方向性を明確に出来ることが、新しいものを生み出すうえで非常に重要だと思われる。これが、先に挙げたフリージャズではないが、3つの要素のすべてを自由にしてしまうと、フレームワークがなくなり、進むべき方向性が見出せなくなってしまうのである。

②範囲を決めることで、内と外の境界を明確化出来る

2つ目のポイントは、考えるべき範囲を限定することで、内と外の境界を明確化出来るということである。表現が抽象的な感じがするかもしれないが、具体例を考えれば直ぐに分かる話な気がする。例えば、書店員であるAさんがAmazon.comが生まれる以前に、インターネットで本が売れるのではないかと考えたと仮定しよう。普通の人がネットで本を売ろうと考えて、それが良いアイディアかどうかを判断するときに比較するべきは、既存のリアルな書店との比較であろう。このため、書店ビジネスの特徴をまず考えてみよう。本という商材の最も特徴的な点は、商材の点数が異常に多いという事である。どこで読んだのか定かでないので正しいかどうか分からないが、地球上で本より種類の多いものは昆虫しか存在しないそうである。この商材の種類が多いという点に着目すると、リアルな書店ビジネスというのは、次のような問題に直面する。それは、店舗の規模である。当然物理的に多くの書籍を直ぐ売れるような店舗を作ろうと思うと店舗の敷地面積は大きいほどよいということになる。品揃えがよい書店を作ろうと思えば、店舗はどんどん大規模になる。しかし、当然規模の大きな店舗を作ろうと思えば当然その店舗を維持するためには、家賃も高くなるであろうし、店舗をメンテナンス、オペレーションするための人員の確保も必要である。つまり、規模の大きな書店の運営には当然大きなコストがかかるわけである。

大きなコストがかかるということは、当然その店舗を維持して利益を出していくためには、大きな売上が必要だということになる。そして大きな売上を上げるためには、当然その売上分の商品を購入してくれる顧客数が必要であるということになる。

このように考えると、書店ビジネスというのは、出店するエリアの商圏規模と店舗規模をバランスさせることが重要であるということが分かる。例えば私が住んでいる新宿には紀伊国屋書店という大きな書店が2店舗存在するが、おそらくあの規模の書店が維持できるのは新宿という日本で最も乗降客数が多いターミナル駅の商圏内にあるからであろう。

同じ規模の店舗を、郊外の住宅エリアの駅前に立てたとしても、幾ら抜群の品揃えで他の店舗と差別化出来ても、おそらく市場規模的に同様の売上・利益を上げられる可能性は著しく低いと考えざるを得ない。

ここにインターネットという新しいソリューションが登場する。その誕生とともに、インターネット通販というのもが流行り出したらしいという噂が聞こえてきた。インターネット通販というのは、物理的な店舗は必要なく、パソコンの画面上にカタログのように商品一覧を作ることができる。そして、パソコン上で注文が入ったら、倉庫から宅配便で注文者の指定した住所に商品を送るという仕組らしい。

それまで、書店ビジネスの莫大な商材数と店舗規模のバランスに大きな問題意識を持っていた書店員Aさんは、インターネット通販の仕組を聞いて、これは面白いかもしれないと思い始める。なぜなら、ネット上のカタログはどんなに商材数を増やしても家賃が増えることはないので、ある意味無尽蔵に増やすことが可能である。また、商品は全国どこから注文されても宅配便で倉庫から送るだけなので、町中のお店ではなく、家賃の安い郊外に倉庫が1か所あればよい。しかも、インターネットの電子カタログというのは、欲しい本の名前をいれてボタンを押せば、その本をコンピューターが直ぐに探してくれるので、物理的な店舗で本を探すよりも簡単に欲しい本を探せるという。何て便利なのだろう。。。

ジェフ・ベゾスがどう考えてAmazonを始めたのかは話したことがないので知らないが、おそらくこんな話のスーパー精緻化バージョンだと思う。そして、ここで、重要なのは、内と外の境界である。この例で言えば内はリアルな書店ビジネスであり、外は新しく勃興したインターネット通販ビジネスである。まず、ここで重要なのは、書店Aさんが自分が働く書店ビジネスである「内」について、その構造を客観的に分析して、ビジネス上の問題点を整理・理解しているという事である。自分が問題解決をしたり、イノベーションを起こそうとしている分野を内として定め、その分野の問題点・課題を構造的に理解するということが、イノベーションの出発点になるはずである。

それに対して、外であるネット通販についても、そのアイディアが自己の内の改善に役立つかどうかを検討するためには、内の客観分析に基づいた整理・理解と同じフレームワークで、外の分野についての整理・理解をする必要があるし、内の分析をきちんとしていれば、それはある程度可能になる。そして、その外の分析により、外のアイディアが内の課題解決の可能性があるかどうかの検証が可能になるわけである。

イノベーションという言葉を経済用語として提唱したヨーゼフ・シュンペーターはイノベーションを生み出す手法を「新結合」と言ったが、新しいビジネスのアイディアというのは、大抵「内」の問題を解決するアイディアが、「外」の別の業界、産業にあって、それを「内」に取り込むことによって起こると考えられている。こちろんこの考え方は、学問の世界の机上の空論ではなく、現実のビジネスの世界でも当てはまると思っている。

しかし、それを上手くやるためには、「内」と「外」の境界を明確にし、まず「内」の深い理解を行い、その土台の上で「外」の世界を見ることが必須である。この意味で、物事を考える枠組みである「内」の限定は非常に重要だというわけである。

自由な発想は枠組みを作るところから

最初は音楽の話を始めたので、お読みになった方は何のことかと思われたかと思うが、クリエイティビティという側面で考えるとき、Jazzというのは即興演奏が重視されているという自由度があるからこそ(その辺がクラシックとは違うのかな?と)、ビジネスと対比して分かりやすい事例だと思って、趣味の話をちょっとさせていただいた。

何の枠組みもなく、自由な発想で、なんでも好きに考えてよいことが、クリエイティビティを高めたり、イノベーションを起こしたりするわけではないと思っている。たまにいる天才的な人を除いて、普通の脳みその持ち主にとっては「確率を上げたい」のであれば、寧ろまず、どのエリアでクリエーションするのかという枠組みを設定することをお勧めする。それにより、考える方向が定まり、対する対象の分析も精緻になるわけである。

知識創造企業 ~野中郁次郎先生の功績~

野中先生の業績

私の知る限り、おそらく日本人の経営の学者で世界で最も高い評価を得ていた方の一人(というか、おそらくダントツ)である野中郁次郎先生が25年1月にお亡くなりになった。(本当に、心からご冥福をお祈り申し上げます。)

野中先生は、私が大学・大学院と通った一橋大学で長く教鞭をとられていたが、大変残念ながら私の在学時には退官されていたため、直接講義をお伺いする機会には恵まれなかったので、この点は大変残念であったが、幸い野中先生と長く研究やお仕事をされていた米倉誠一郎先生や竹内弘高先生の講義を受けることができたので、お二人の先生を通じて野中先生のお話を何度もお伺いする機会もあったし、その影響で主要な著書も読ませていただいた。

野中先生は著書も膨大であるが、最も有名な業績は2つであろう。一つ目は、100万部以上の販売実績がある「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」である。第2次世界大戦の戦時史研究をベースに組織論的な視点から旧日本軍がなぜ敗れるに至ったか(ちなみに、本書ではそもそも第2次世界大戦への日本の参戦は勝てない戦争であったという前提にたっているが)が詳細に論じられている。

もう一つは、今回の表題にもした「The Knowledge Creating Company(邦題 知識創造企業)」においてナレッジマネジメントという経営学の新しい潮流を生み出したことだとである。日本国内においては本の販売数を見ても、野中先生といえば失敗の本質だと思うが、グローバルの視点でいえばナレッジマネジメントという経営学の一分野の生みの親的な位置づけで、圧倒的に後者のほうが有名であろう。ちなみに、このBlogを読んでいる方にはIT系のビジネスにかかわっている方も多いと思うので、そこにかかわる話でいえば、ITソフトウェア開発の主流プロジェクトマネジメント手法であるアジャイル開発におけるスクラムの概念なども野中先生と竹内先生のナレッジマネジメントのもとになった論文で紹介された日本企業の製品開発の事例研究からアイディアを得ていたりする。

と、野中先生の凄すぎる業績を書き出せばきりがないし、その内容を私のような学者でもない素人が解説するのは僭越すぎるし、ちゃんと理解できている自信もないので、野中先生の考え方の変遷とか、今考えていることなどを米倉先生と一緒に話している、対談のYoutube動画でお話ししている内容をもとに、考えたこと、刺激をいただいたことを書いてみたい(1時間ちょっとなので、是非動画も見ていただければと思います)。

情報処理委理論から知識創造へ

まず、私などは大学院生になるちょっと前に出た1995年に出版されたThe Knowledge Creating Companyから野中先生の本を読んだので、そこに至る詳細な変遷を正しく理解していなかったのであるが、野中先生がKnowledge Managementと言い始める以前の組織論の研究というのは、如何に効率的に情報を処理するのかというのが議論の主眼であったということである。当初は、決まった情報を如何に素早く処理して組織を円滑に回すのかということが主眼であったが、そもそも企業が処理すべき情報というのは企業が直面する環境の変化により処理する情報の種類・内容が異なってくるということで、コンティンジェンシー理論(contingency=偶発性、偶然性、不確実性)というものに発展してきたそうである。野中先生はこの最新のコンティンジェンシー理論をカリフォルニア大学バークレー校(サンフランシスコの郊外にある素晴らしく格好いい大学)で学び、日本に持ち帰っていらっしゃった。ちなみに、この博士論文は帰国後に日本語に翻訳して出版され、日経・経済図書文化賞をいきなり受賞されたということだ。

しかし、野中先生はこのコンティンジェンシー理論を研究している最中から一つの疑問を持っていたそうだ。それは何かといえば、情報を受動的に効率的に処理するだけでは、イノベーションを企業がどのように起こすのかということが説明できないということだ。ものすごくドライな言い方をすると、情報処理の理論において前提としている人間というのは、働きアリのような存在で、目の前に大きな石があればよけて迂回するというように、目の前に起こった事象に対して受動的に反応することはできるが、自分の意思を持って能動的に行動することを全く前提としていないということであった。しかし、イノベーションというのはもっと人間的な活動で、「こうしたい」「こういう問題を解決したい」という欲求のようなものが原動力になり生み出されるものなのではないかと考えるに至り、様々な人との議論を経て、知識が産まれるプロセスを体系化することを考えることになったそうだ。イノベーションというのは、人間の意思、主観、経験のようなものが組み合わされた、より人間的な活動で、アリが荷物を運ぶような営みではないはずだというわけだ。

こんな話は、言われてみれば至極当たり前の話であるような気がする。ただ、実際に会社で仕事をしたことがない純粋な学者の人にはなかなかわかりにくいのかもしれないが、9年間の事業会社でのビジネスマン経験があった野中先生のような方からすれば、学術界で議論されている話が、ご自身の経験にそぐわないということで、ずっと違和感を持たれていたのだと思う。

私の経験に照らしても、私がどれだけ優れたマネジメントができているのかは自分ではわからないが、それなりにイケていると仮定して、これまで自分が見てきた部下のマネジメント手法を見てみると、組織のマネジメントがうまくできない人というのは、頭が悪くて考えが足りないというケースは少なく(私の部署で高く評価して、マネジメントを任せるような人材は基本的に論理的思考力が足りないというケースは稀であるというのもあるのかもしれないが)、むしろ論理的に考えすぎて、こうやったほうが効率的だとか、こうするのが最もロジカルだからという手法や仕事の進め方をやり切ってしまうということが多い気がする。

しかし、以前にも「ロジックを超えたもの」というコラムでも書いたのだけれども、人間が集まった組織というのは、客観的なロジックだけではうまく回らない。以前のコラムでは「愛」という言葉を使ったが、人の思いとか、欲望とか、意思とか、論理的に説明できない何者かは必ず存在していて、それを無視してしまっては多くの場合、組織はうまく回らなくなったり、メンバーが活き活きと働けなくなったりすると思う。

別の動画で、楠木先生が仰っていた野中先生の一言がこの話を凄く的確に表現していると思うが、野中先生は情報処理をベースにした理論を「暗い」と表現し、経営学というのは「明るくないとダメだから、情報処理の理論は捨てる」と学生の前で宣言したそうである。私はこの話を聞いて、強い共感を覚えた。25年のビジネスマン人生を振り返っても、周りの人から見れば、私のしてきた仕事というのは、長時間労働で、様々な人から無理難題を押し付けられ、板挟みにあい、とても楽しそうには見えなかったかもしれない。ただ、もちろん一瞬一瞬でつらいな、面倒だなと思うことはあっても、私の性格なのか基本的には様々な課題をどのように解決するかをチームのメンバーと話し合い、PDCAという名の試行錯誤を繰り返し、新しい発見を喜ぶという日々の繰り返しを辛いとか、つまらないと思い悩んだ記憶がほとんどないし、もしそのような状況になりそうになった場合は、自ら新たな課題(欲求)を設定して、面白いと思えるサイクルを自ら作り出すように心がけてきた。

私が25年間でどれだけのイノベーションといえるものを生み出せたのかはよくわからないが、ビジネスというのはそのように人間的で、明るく、楽しいものでなければいけないのではないかと強く思っている。

知性同士の真剣勝負(知的コンバット)とは?

ただ、野中先生がこの対談の中で協調されていることは、その人間的なプロセスは、単に明るく楽しいものではダメで、ある目的に向かって人と人が繰り返す考えをぶつけ合う真剣勝負、戦いでなければならないとも強く仰っている(知的コンバット)。そして、今の日本企業に足りていないものこそ、この真剣勝負の戦いなのだと仰っている。

この点についても、私は強く共感する。私は自分のビジネスマン人生を楽しいものであったと表現したが、その楽しいの意味は「レクリエーション」的な楽しさではなく、間違いなく「知的好奇心」や「知的発見」のような楽しさであるということである。そして、知的な楽しさを得るためには、ぼんやりと考えるだけでは全く不十分で、目の前にある困難な課題や、その実現を難しくする環境や、対峙する競合企業と真剣に向き合い、突き詰めて考える必要があるのだと思っている。

野中先生は、そもそもイノベーションを起こすということは並大抵のことではないのだと仰る。真剣勝負の中で、変わりゆく環境・状況の変化の中で、その瞬間・その瞬間に何が正しく、何が間違っているのかを考え続けなければいけない。そして、それは単に個人で考えるのではなく、会社という組織において、一緒に仕事をする同じチームのメンバーと自分の経験に基づく暗黙知同士をぶつけ合い、共感して、形式知として形にしていくという人と人との真剣な議論により初めて実現するのだと仰っているのだ。

また、PCDAに話を戻そう。この話を改めて聞いて、考えらせられたのは、知的創造企業を読み、SECIモデルという暗黙知と形式知の転換の繰り返しだという理論的なサイクルは理解していたが、そもそもこのSECIモデルの現実世界の運用の現場が、野中先生がお話しされているような熱量のものを表現されているのだということまで、書籍を読んだだけでは理解していなかったということである。しかし、一度この点を理解したとき、私が、デジタルマーケティングで最も重要であると考え続けているPDCAサイクルの徹底した高速回転という考え方、それを競合企業よりも遥かに高速に、精度高く行うというコンセプトは、SECIモデルの高速回転に立脚した行動であったのだと、改めて認識するに至ったわけである。

Over Planning、 Over Analysis、 Over Compliance

この話の中で、同じく野中先生が仰っているのは、現在の日本企業の問題は、Over Planning、 Over Analysis、 Over Complianceであるということであり、このような一見スマートで、プロフェッショナルな仕事の仕方には、その人の人間的な欲求や、思い、志のようなものが含まれていないのだと仰っている。しかし、イノベーションというのは、人間が行う行為であるので、初めに人ありき、思いありきでなければ、始まらないのだと仰っている。もちろん正しく分析をして、計画を作れば、それっぽい組織のディレクションを提示することはできるであろう。しかし、そこに発案者のなぜその問題を解決したいのか、それによりどのような世界を実現できるのかという思いがなければ、その計画にイノベーションを起こすほどの推進力は産まれないのだということだと思う。先生は、このような思いを持つ人を、「知的野蛮人」という言葉を使って表現されているが、単純に言えば、何かを生み出すためには、何が何でもやり遂げるんだという強い意志のようなものは必ず必要なんだと改めて思うわけである(という話を書いていると、最も鮮明に顔が思い浮かぶのは、20代半ば~30代半ばという自分のビジネスパーソンとしての人格を形成する最重要期に傍で仕事をさせていただいた三木谷さんの顔だったりして、改めて、楽天という会社があそこまで成長でき、社会にインパクトを残せた理由も、なんとなく実感値として理解できるような気がする)。

私が昨今の日本社会をみて心配になるのは、お行儀よく、スマートに立ち回ることが良いことであるという理解がステレオタイプに浸透しすぎていることであると思う。もちろん、私の若いころにたまにいた、やたら高圧的に人を叱責したり、異性の尊厳を傷つけるような行動は言語同断である。ワークライフバランスが叫ばれる背景として、精神的な健康を維持したり、男女が均等の負担で家庭の運営を行うべきなど、私が若いころから改善すべき点があることも理解する。しかし、今の日本社会というのは、そのような流れに過剰に適応してしまってはいないであろうか?例えば「ワークライフバランス=長時間労働が悪」なのであろうか?少なくても、私は自分の仕事よりワクワクできるような趣味を持ち合わせていないので、ワークの時間が長くなったからと言ってライフを犠牲にしているとは思わない人間である。すべての人に同意してほしいとは全く思わないが、少なくても私個人は25年そう生きてきたし、仕事をしていない時間も、仕事のアイディアを考えたり、他社のマーケティング施策を生活の中で分析したりすることに頭を働かせていることが楽しいので、仕事に近いことを余暇の時間も行っていたりする。しかし、私が知る限りの一般的な事業会社において、若者に対して、一律に長く働くことが悪だと教えているのではないだろうか?

米国の企業で高い給与水準で仕事をしているような、いわゆるエリートといわれる層のビジネスパーソンにもこれまで多くあってきたが、彼らの多くは、日本人よりも遥かにハードワーカーである。特にグローバルに活動している企業においては、時差のある顧客や社内組織との仕事をしなければいけなかったりするので、この人いつ休んでいるんだろうと思うくらい、常に動き回っている人も結構いたりする。しかし、今の日本社会において、若者にそんなことをさせたら、すぐにブラック企業のレッテルを張られてしまいそうである。

如何にイノベーションを起こせる人材を育てるか?

もちろん社員に対して、嘘をついて入社をさせ、長時間労働を強要することは問題である。それは個人に選択権を与えていないからである。しかし、自分の働き方・ワークライフバランスを自分で決める自由はもっとあっても良いのではないかと思う。自分の仕事を通じてイノベーションを起こして、社会を変えたいと思ったとき、寝食を忘れて没頭することも時には必要であるのではないか?体が元気で、無理が効く若い時期に仕事に没頭して、自分の経験値を一気に積み上げるという選択肢を選ぶことができても良いのではないか?もちろんそれは、日本人の大多数の人が喜んで選択する選択肢ではないかもしれない。つまり「普通」ではないかもしれない。しかし、日本人の全員が、「普通」になってしまったら、日本経済はイノベーションを起こして、海外の企業に打ち勝って行くことができるのであろうか?

少なくても、私が日米欧で仕事をしてきて思うのは、よく言われる日本人の生産性が低いこと、特に、ホワイトカラーの生産性が低いことに対して、日本人は長時間ダラダラ仕事をしているからだという議論が正しいと実感として思ったことはほとんどない。もしかしたら、働かないおじさんがたくさんいるような職場というのがあるのかもしれないが、少なくても私はそのような会社で仕事をしたことはない。では、なぜ日本社会のホワイトカラーの生産性が低いのかといえば、個々の会社がイノベーションを起こせず、収益性の低い状態で多くの人を雇い、仕事をし続けているからであろうと思う。

野中先生の無茶苦茶熱い思いの詰まったお話を聞いたとき、改めて思ったことはこんな感じである。イノベーションを起こすということを野中先生は経営学という世界で、ご自身が実践されてきたのだと思う。Knowledge Creatingに最も重要なことが、経験に基づいた暗黙知から出る思いなのであれば、野中先生ご自身が新しい理論を創造する仮定こそが、Knowledge Creatingそのものの体験であり、暗黙知の発露であったのではないだろうか?

その偉大な業績と、熱いお話を効く限り、なかなかこういう人はこれから出てこないのだろうなと残念に思ってしまう。心からご冥福をお祈りしたいと思う。