イノベーションとオペレーショナルエクセレンスの関係とは?

AIにビジネス戦略は考えられるのか?

最近時間があると考えてしまうのは、AIと人間の棲み分け、とりわけ人間に残される仕事とはなんであるのかということである。ちょっと前までは、私のような文系の人間がビジネスの世界で生き残れるとすれば、新しいビジネスを考えるであるとか、新しい戦略を考えるであるとかの知的生産業務であれば人間に残されるのではないかと考えてきたが、最近どうもそれも怪しい感じがしてきた。

例えばChatGPT4に、「友人がこれから独立して、起業をしようとしています。大学卒業後10年間IT業界で仕事をしてきた人です。何かよいスタートアップのビジネスアイディアはあるでしょうか?」というざっくりした質問を投げかけてみたところ、ちょっとしたコンサルティング会社に頼んで出てきたのではないかというくらい整理されたアイディアが返ってきた。何度か質問をして、AIがどうしてその答えを出してきたのかを確認し、こちらの能力とか経験の情報をなんとなく提供するなどやり取りを繰り返すと、提案するアイディアが相当な精度で絞られていき、なんとなくこのアイディアを実行したら本当に起業できてしまうのではないかと思うアイディアに絞り込むことができてしまった。そこまで話をすれば、そのあとは事業計画のプレゼンテーションの構成を考えてくれたり、こちらの考えた事業計画の内容をチェックしてくれたり、より詳細な検討ポイントを教えてくれたりと、かなり有能なコンサルタントに何千万円を払わないと出来なさそうな情報が、一瞬にして返ってくるような感じであった。

もちろん、このChatGPTとの議論はあくまで机上の空論であり、どれだけChatGPTの提案が「それっぽかった」としても、それが本当に実現できるかどうかはやってみなければ分からない。結果として上手くいかないこともあるであろう。では、もしChatGPTの意見が100%の正解ではないとして、それはChatGPTがダメで、やっぱり人間のほうが良いという話しになるのであろうか?私は残念ながらそうはならないと思う。なぜなら、マッキンゼーにしろ、ボストンコンサルティングにしろ、優秀な人間のコンサルティング会社に何千万、何億円のコンサルティング費用を支払って、ビジネスアイディアを考えてもらったとしよう。その結果出てきたアイディアを実行したら、100%成功するのであろうか?私の能力レベルともらっている金額は全く違うとしても、私自身も今はコンサルティングの仕事をしているので、悲しい現実であるが、残念ながらYesとは言えない。そもそも、ビジネスにおいて100%何かを予言することなどほとんど不可能である。また、そもそも、トップコンサルティング会社の優秀な人たちが集まってビジネスモデルを考えて、100%成功するアイディアを作れるのであれば、はっきり言ってその人たちは早々にコンサルタントなどやめてしまって、自分たちで考えついた最も可能性の高いビジネスモデルを自分たちでやってしまった方がよい。仮に今の年収が何億円であるか分からないが、それよりも遥かに大きな収入を確実に得ることができるはずだからである。もちろん、コンサルティングファームをやめて独立・起業する方もそれなりにいて、事実成功している人もいるけれども、全員がそうしているわけでもないことを考えれば、コンサルタントを(長く)している人自身も、自分たちの提案が100%ではないことが分かっていると考えるしか、論理的に説明がつかない。

このように考えれば、ChatGPTの提案が100%正しくないからと言って、ChatGPTには戦略立案のような作業は出来ず、それは人間の仕事として残されると考えるのは正しいとは思えない。上記のディスカッションや、具体的には申し上げられないが、私自身が起業しようと思っているアイディアをChatGPTとディスカッションしたより具体的かつ、詳細な内容を見ると、私の25年のビジネス経験で出会った数千人のビジネスパーソンと比較して、ChatGPT4の現在地はかなり上位のビジネスパーソンと同等程度の戦略構築力を持っていると考えてもおかしくはない気がしている。しかも、仕事を進めるスピード感ははっきり言って人間の数百、数千倍の能力なので、戦略立案、論理構成のような、身体的作業を伴わない論理的思考力に依存した仕事は人間が行う必要がないのではないかという危機感が増すばかりである。

なぜ100%正しい戦略の構築が不可能なのか?

ChatGPTのこのような現状を考えると、人間の行う知的労働の領域はどんどん限定されていく。では、何がAIにできないことなのであろうか?そのヒントも、今紹介した、人間とトップレベルの戦略コンサルタントとChatGPTの比較の話しに隠されている気がする。

まず、そもそも、大変頭の良いはずのトップクラスの戦略コンサルティングファームのコンサルタントや、人間には全く及びもつかない巨大な情報量から厳選して考えられたChatGPTが提案する新しい戦略や事業アイディアが100%成功しないのは何故なのだろうか?もちろん理由はいくつか考えられる。①戦略を検討した時点と、戦略の実行時点でビジネス環境に変化が生じている、②戦略のExecution、Operationの段階で想定した通りの実行能力がそのチームに備わっていない、③そもそも戦略の前提条件として考えていた仮説と現実に乖離があった。私の経験上よくあるパターンはこの3点程度である。二桁以上の新規サービスや新商品開発に関わってきた経験でいうと、現実的には①~③のどれかが起こるというよりは、程度の差こそあれ、①~③が同時に起こるケースがほとんどである。しかも、これは失敗するビジネスに限らず、成功するビジネスであってもStrategy以降の2段階において①~③の事象はほぼ確実に問題点として起こり、計画通りに事業が成功するかどうかは、その乖離の程度がリカバリー可能な範囲にとどまっているかどうかの違いである。

では、この3点についてなぜ事前に対応することが不可能なのであろうか?それぞれ個別に見ていくことにしたい。

①戦略を検討した時点と、戦略の実行時点でビジネス環境に変化が生じている

このケースが発生する理由は、一言でいえば、どんなに優秀な人間でも、AIでも、未来を正確に予測することが不可能だからである。ビジネスとは、究極的には、地球上に70億人の人間がいるとすれば、その70億人一人一人の瞬間毎の行動や意志決定の複合的な結果として環境が変わっていくので、未来永劫すべての情報を集めて、次の瞬間に起こることを予想することなど、不可能に近い。もちろん、この話は極端な未来予測のパラメーター数の話をしているが、現実的に個々の事業が直面する市場環境の未来予測をするために必要なパラメーター数ということで考えても、それが5個や10個ということは現実にはないであろう。どんなに精緻なリサーチであっても、戦略というのは必ず過去のデータの分析から未来を予測するものなので、結果的に100%正確な未来予測ができることなどほぼあり得ない分けである。

②Execution、Operationの段階で想定した通りの実行能力がそのチームに備わっていない

Execution、Operationの実現性を事前に正確に予測するためには、事前に下記の2つの項目について正確な情報を把握・評価できていなければならない。1)Execution、Operationを実行するために必要な詳細なタスク項目の洗い出しとその実現に必要な要件、2)実行に必要となる人的なリソースやその能力の把握とその確保の方法。分かりやすく言えば、何をしなければならず、それを実現できるための人員等を準備しなければいけないということである。しかし、現実的には、戦略立案の時点では、1)、2)を正確に網羅的に把握することが困難であるため、実際にはできると考えていたことの実現が想定通りに進まないということが発生するわけである。

③そもそも戦略の前提条件として考えていた仮説と現実に乖離があった

このケースは、未来予想の誤りというよりは、事前の分析精度の問題である。未来予想と同様に、現実の市場環境が分析時点の状況になっているすべてのパラメーターを理解して分析をすることは、未来予想同様に現実的には不可能であるため、目立たないが重要なパラメータの変化が見落とされているなどによって、過去の評価を誤ってしまうということが発生する。

最後に人間に残される仕事とは?

このように考えると、どんな精度の高い、優れた戦略であっても、その実現性が100%でない理由は、大きく分けると2つの理由に大別することが分かる。一つ目は、過去・現在、未来についての市場環境の理解をすべてのパラメーターを把握したうえで完ぺきに行うことが現実的には不可能であること。二つ目が、もし戦略が市場環境を正確にとらえられたとしてもその実行段階においては、個々の人間の能力と業務のマッチングなど数値化・言語化が困難な事象を事前に把握して、計画に織り込むことが不可能であることである。

この2点については、おそらく私が生きている間のコンピューターの発達レベルでは、おそらく解決しない問題な気がする。前者については単純にすべてのパラメーターを考慮して完ぺきな計算モデルを作ることなど不可能であろうし、後者については元データの数値化・言語化が困難である点で、AIが正確に予想することが困難であるからであろう。

ただ、ChatGPTに戦略を考えてもらう実験を通して感じるのは、この2つの課題への対応が、人間とAIのどちらが得意かという点では評価が分かれると思われる。まず、市場環境理解(前者)の課題についての精度向上のカギは、とにかく可能な限りの情報を収集し、その分析をして予測をすることなので、人間の能力が10-20年で飛躍的に向上することはあり得ないこともあり、将来にわたってAIが行うことのほうが精度向上を見込むことが可能だと思われる。

一方で、後者の人間の能力評価から適材適所の個人の配置のような領域についてはもうしばらくは人間に一日の長があるのではないかと思う(願望も含め)。なぜなら、この領域は実際のタスクを実行する人間個人毎のマネジメントを伴う領域だからである。人間の日々のマネジメントを細部にわたってAIがコントロールするためには、データ化できないエモーショナルな領域も含めて把握する必要があるからである(脳に半導体チップを埋め込んで、脳の電気信号をAIが細くできるみたいな話しになったら別かもしれないが)。もし、この仮説が正しければ、新しいビジネスを作るとか、新しいイノベーションを実現するという話をする場合に、人間がAIに勝る可能性のあるポイントは、StrategyよりもむしろExecution、Operationの領域であるのではないか。

さらにいえば、おそらく、会計や人事労務管理など、データを決まったルールに基づいて正確に処理するようなタスクについては、確実にAIの方が処理能力が高くなり、人為的ミスの可能性も排除しやすいので、Operationといっても人間の介在する余地は小さくなっていくであろう。

このように考えると、将来的に人間が付加価値を出すべき領域というのは、明文化されたルールが設定されておらず(範囲が限定されておらず)、タスクの進捗とそこから生み出される結果が、人間と人間の相互作用によって生み出される領域である可能性が高い。野中郁次郎先生のSECIモデルでいえば、Socialize(共同化)という人間同士が暗黙知同士を議論を通じて共有化していくプロセスとInternalization(内面化)という形式知の組み合わせによりできたマニュアル的なものを体験を通じて個人の暗黙知として蓄積していくプロセスに関わる部分になるであろうと思われる。

暗黙知が生まれる場所とは?

この考えは、実感値としても納得感がある。最初に例示したChatGPTとの戦略ディスカッションを通じて感じたことは、AIから良い情報を引き出し、徹底的に論理的なディスカッション結果を導き出すためには、人間の側にAIに自分の考えを言語で論理的に説明する形式化の能力が必須であるし、その精度が高いほど、AIは納得感のある結果を提示してくれるようになる。一方、SECIモデルで暗黙知として定義される領域は、その形式化が難しいことがそもそもの定義であるため、暗黙知のやり取りをAIと重なうことは著しく困難である。SECIモデルが正しいとすれば、暗黙知が関わる分は必ず人間が行わざるを得ないのである。

では、この暗黙知は何処から産まれるのか、それはおそらくStrategyではない。より現場に近い活動であるほど蓄積されていく可能性が高い。つまりOperationの領域である。ただ、先ほど述べたように、情報を決まったルールにしたがって、正確に処理するタイプのオペレーションはおそらく人間が行うタスクとしては残らない。また、そのような情報の効率的処理という領域においてはAIが高性能化してしまえば、人間の経験値など大きな役に立たない可能性が高い。つまり、暗黙知が創られたり、蓄積されるのはオペレーションといっても、上述した人間同士の相互作用を伴うルール化が難しいオペレーション領域であると言える。

ここまで来て、前回から話題にしているオペレーショナルエクセレンスに話を戻す。AI前のビジネス世界においては、Strategy、Execution、Operationの3領域の事業の差別化要因としての重要性は、Strategy>Execution>Operationという優先順位であると考えられてきたと思う。しかし、今回話してきた実験を通して私が感じるのは、AIの能力が上がる近い将来の優先順位としては、Strategy<Execution<Operationと、全く逆転する可能性が高いと思われる。なぜなら、Operationからの距離が上がるほど、タスククオリティは情報集、情報の論理的理解と整理の比重が高くなり、おそらくこの領域で人間がAIに勝つことなどほぼ不可能だと思われるからである。

もし、企業の差別化要因として、今後ますますOperationの地位が向上するという私の仮説が正しいとすれば、多くの企業において重要なのは、Operationを単なる効率化を追及する無駄な業務と考えるのではなく、日々の考え抜かれたオペレーション精度向上の活動を通じた、暗黙知の集積ポイントであると定義しなおす必要があると思われる。マーケティングの領域の議論であれば、その具体的な方法はこのBlogで一貫してPDCAの高速回転ということで実践方法を提示してきたので、そちらを参考にしていただきたい。

Operationの重要性はこれからの企業活動において益々重要になってくる。企業が同業他社と差別化しようと思う時、差が生まれるのポイントはOperationである。つまり、オペレーショナルエクセレンスで競争優位を気づいた企業こそが、中長期的な競争優位性を保持し続けられるのである。

オペレーショナルエクセレンスとは?

オペレーション精度で差別化を実現する

オペレーショナルエクセレンスというビジネス用語がある。定義を見てみよう

オペレーショナルエクセレンス(Operational Excellence)とは、オペレーション(業務の管理・運用)の効率・向上を目指すことによって、競合他社が真似できない、その企業独自の優位性を保つ状態

アメリカの著名なコンサルタントであるマイケル・トレーシー氏とフレッド・ウィアセーマ氏が1995年に「ナンバーワン企業の法則」で提唱しました。それによると、優良企業の3大指標として以下の3つが示されています。

  • オペレーショナルエクセレンス(業務オペレーションの効率・向上)
  • プロダクトイノベーション(革新的な製品/サービスの創造)
  • カスタマーインティマシー(顧客との親密な関係の構築)

出典:フジトラニュース

分かりやすく言えば、日々のオペレーションの効率をあげることによって、利益をあげていく手法である。提唱者の二人の定義に従えば、優良企業の3大指標には、オペレーショナルエクセレンスとともに、プロダクトイノベーションとカスタマーインティマシーがあげられるそうだが(それ以外にもあるような気がするが)、例え商品で差別化ができていなくても、オペレーションを競合他社に真似できないほど洗練させることによって、マーケットでの差別化を産むことが期待されるとする考え方である。

ビジネス成功の要素-楽天市場の場合

仮に、ビジネス成功の3要素が正しいとして、事業が成功するために必要な3要素の重要度の比重は業種毎にかなり異なるというの私の見解である。

例えば、私の最初のキャリアである楽天のインターネットショッピングモールという職種については、どうであろうか?まずプロダクトイノベーションから見てみよう。インターネットが一般に普及しだして、Windows95の登場で家庭にPCが普及しだした1990年代の後半において、様々な企業がインターネットでのビジネスチャンスを模索していた。その中でもインターネット通販=ECというのは当初から有力なビジネス分野と認識されていた。そのような流れの中で、アメリカではAmazon.comが直販ネット書店という形で起業され急成長を遂げ、ebayがCtoCのECとして同じく話題となっていた。それに対して、日本においては様々な企業がどのような方法が日本に向いているのかと模索し、楽天の創業前にも、大手外資系IT企業が運営するネットショッピングモールがサービスを行うなど、様々なチャレンジが行われていたが、まだこれといって成功しているという事業があったわけではなかった。

そのような状況において楽天はインターネットショッピングモールというビジネスモデルでECの世界にスタートアップとして登場した。前述した通り、インターネットショッピングモールという業態はすでに先行企業があったが、全く成功していると言える状況ではなく、多くの人にそんなもの上手くいかないとさんざん言われたそうである。なぜ、そんな状況で楽天市場が成功したのかというのは詳細に話し出すと長くなるので、ここでは詳述しないが、創業メンバーたちは先行サービスの問題点を徹底的に研究し、当時としてはかなり珍しかった今でいうSaaS型のサービスを提供することで、大きな成功を収めた。

楽天の創業期には、日本におけるSaas型サービスは市場に強力な競合がいなかったため、楽天の創業期の成功要因が何かといえば間違いなくプロダクトイノベーションであったと思う。

しかし、プロダクトイノベーションというのは決定的な弱点がある。それは、企業外から見ても、先行企業がやっていることが把握し易いので、そのプロダクトを模倣しようと思えば模倣できてしまうということである。事実、私の在職中も、多くのチャレンジャー企業が楽天の成功の2番煎じに預かろうと参入してきたが、おそらくある程度成功したのは、当時日本におけるネットの巨大なトラフィックをコントロールすることができたYahooのYahooショッピングくらいであったと思う。

では、なぜ、プロダクトイノベーションで成功した会社が中長期的な競争優位を保てるのであろうか?その理由は、カスタマーインティマシー(顧客との関係性の構築)にあると思う。分かりやすく言えば、先行企業として多くの出店者を集め、そこで買い物をする顧客を先に集めてしまったことで、ショッピングモールに必要な品揃えと消費者のデータベースを先行して構築してしまったために、SaaSのサービスとして同じものを構築できたとしても後発企業にとっては、サービス全体の模倣までできない状況を先行して作ってしまったわけである。

私が立ち上げに関わった楽天ポイントのサービスなどは、まさにこのカスタマーインティマシーを強化するためのツールであったわけであるが、プロダクトイノベーションで構築した優位性を、カスタマーインティマシーでさらに強化するということで、自社の優位性を複合的なものとしていったわけである。

オペレーショナルエクセレンスについては、正直今の規模になった楽天のオペレーション精度、効率性を私は知らないので言及することはできないが、少なくても楽天を見ると、プロダクトイノベーション→カスタマーインティマシーと成功の要素が事業のライフサイクルが変化するに従い変化・強化されて行っていることが分かる。

ビジネス成功の要素-ゲーム産業の場合

では、私が2番目に働いたゲーム業界についてはどうであろうか?私の見立てでは、この業界は圧倒的にプロダクトイノベーションの世界であるといえる。分かりやすく言えば、どれだけマーケティングを駆使してカスタマーインティマシーを高めても、流通コストを下げるためにオペレーションを効率化して他社と差別化をしたとしても、ゲーム業界において面白い・ユーザーに評価されるゲームを作れなければ、事業を成功するチャンスはほぼないと言って間違いない。

この話は、私のようなゲームを作ることができない(そもそもゲーム業界で8年以上働いたが、個人的にはゲームはほぼしない)人間からすると非常に悲しい現実であるが、この考えは間違っていないと思う。よく部下に言っていたのは、「面白いゲームのマーケティングを自分たちが失敗して売れないことはある。しかし、面白くないゲームをマーケティングの力でヒットゲームにすることは残念ながらできない。」ということである。特に、モバイルのFree to Play(=インストールは無料。課金はゲームをPlayする中で行う)型のゲームにおいてはこの特徴が強い。顧客は、インストールは無料なので、ゲームへのエントリーハードルは低く、ある程度話題を作ったり、効率的にマーケティングをすることができれば、ゲームをインストールしてもらうところまでは持っていけないことはない。しかし、ユーザーがゲームをプレイして面白くないと思ってしまった瞬間にゲームから離れてしまう。そして、一旦面白くないと思われてしまったゲームにユーザーを呼び戻すのは、著しくハードルが高くなってしまうからである。

このように、ゲーム業界においてはプロダクトイノベーションは絶対的な必要条件である。しかし、一旦プロダクトイノベーションを実現できると、中長期的にはヒットコンテンツのIP活用してシリーズ化して継続的な売上をあげていくようなカスタマーインティマシーであったり、日本企業であれば日本の成功ノウハウを海外市場にも展開して市場を大きくしていくなどのオペレーショナルエクセレンスなどの要素で、事業を拡大することは可能である。ただ、プロダクトイノベーションが必要条件である以上、他の2要素のみで事業を成功することは不可能なことは間違いない。

その証拠に、日本の多くの大手ゲーム会社というのは、大手のゲーム会社同士が合併してできた会社である。具体的には申し上げないが、社名に〇〇・△△というように、複数のブランドが並記されている会社をよく見かけるであろう。では、なぜ合併せざるを得なかったのかといえば、プロダクトイノベーションを継続して、切れ目なく行うことが難しく、経営を安定させることが非常に難しいからである。プロダクトイノベーションを継続的に行い続けなければいけない産業というのは、正直に申し上げて、経営にどうしても「運」の要素が入り込んでしまうのを避けられないという特徴がある。もちろん、このBlogでも何度も議論しているイノベーションマネジメントなどの理論を活用して継続的にヒットを生む努力は各社行っているとは思うが、内部で働いた経験でいえば、運を排除するのは相当に難しいというのが私の結論である。

ビジネス成功の要素-人材紹介ビジネスの場合

では、最後に私が直近で働いた人材紹介という業種はどうであろうか(人材業では範囲が広すぎるので、ここでは人材紹介に限定する)?この業種ははっきり言ってプロダクトイノベーション的な要素は非常に低いと言わざるを得ない。人材紹介業というのは、転職をしたい求職者Nと採用したい採用法人NのN対Nのマッチングという非常にシンプルなビジネスモデルであり、そのサービスの根本を変えることが難しい。私の前職のトライトという会社もその典型であるが、唯一あるとすれば、取り扱う職種を限定して、専門・特化することで競合環境をコントロールすることくらいである。

私がある業界を見るときに、プロダクトイノベーションの要素が少ない業種の判断材料と考えているのが、小規模事業者が乱立しやすい業種、その産業での成功体験をもとに独立して起業しやすい業種であるかどうかというのを見るようにしている。人材紹介業でいえば、ビズリーチをみるといわゆるヘッドハンターといわれる人がたくさん活動しているのに気が付くと思うが、このような人たちの中には個人で人材紹介業を行っている方が結構多く含まれている。

では、このようなプロダクトイノベーションで差別化ができない業種で成功している企業の差別化要因とは何であろうか?結論は、オペレーショナルエクセレンスとカスタマーインティマシーの組み合わせである。

人材紹介業は、先ほど述べたようにN対Nのマッチングなので、事業規模を大きくしようと思うと、双方のNをどれだけ多く集めて、マッチングの精度を高めて求職者の側から視れば獲得した求職者の転職率をどれだけあげられるかが勝負であるし、採用企業から視れば獲得した求人枠をどれだけ充足させられるかが焦点になる。

そのように考えれば、多くのNを集めるという点で考えれば、求職者であれ、採用企業であれ、顧客とのリレーションをどれだけ強固に作り、その数を拡大していくかが勝負であるためカスタマーインティマシーを高めるための広義の意味でのマーケティングが必要である。一方で、そのN対Nのマッチングを効率よく、高精度で行うために必要なのが、オペレーショナルエクセレンスになるわけである。

そして、さらに重要なのが、この2つの要素は独立しているのではなく、組み合わせて企業・サービスのバリューチェーンとして全体として最適化されなければイケないということである。具体的には、以前、KPI設定の仕方や、デジタルマーケティングオペレーションの話しの中で議論した内容を振り返ると分かりやすい。そもそも、集客オペレーションという狭義のマーケティングで競合と優位に戦うためには、単に広告のオペレーションスキルをあげるだけでは難しく、顧客獲得後の顧客LTVを改善するための後工程のオペレーション活動の効率が競合企業よりも高いことが必須である。なぜなら、後工程のオペレーション効率が悪い企業は顧客LTVが低くなるため、獲得した顧客一人当たりの価値が低いということになる。それはすなわち、競合よりも顧客一人当たりの獲得単価を低く設定せざるを得ないことを意味するため、中長期的には収益率を維持したまま、競合と戦っていくことができないことを意味するからである。

オペレーショナルエクセレンスとカスタマーインティマシーを組み合わせる

このように3つの要素を整理して考えると、私自身のキャリアで選んできた仕事がこのようになった理由も分かってくる。最初に新卒で入社した楽天の初期は別にして、楽天でマーケティングを始めて以降のキャリアは、一貫して今述べてオペレーショナルエクセレンスとカスタマーインティマシーの組み合わせの最適化を行い、バリューチェーン全体の効率をどれだけ改善させられるかをひたすら考えてきたといえる。転職する際の選択の基準は、ある程度マーケティング予算を使える企業であることが自分の得意分野を考えると条件であったのだが、継続的に大規模なデジタル広告予算を使える業種というのは、基本的にはこの2つの要素の組み合わせで事業拡大ができる業種であることが多い。

ゲーム業界については、プロダクトイノベーションの比重が大きいという話をしたので、変に思われる方がいるかもしれないが、企業としての成功の最も重要なカギはもちろんその通りなのであるが、Free to Playのゲームが主流になるにしたがって、プロダクトイノベーションが成功した後は、残りの2要素を精緻に行い、プロダクトライフサイクルを伸ばし、顧客LTVを高めることが必要になるため、この点で私のスキルが活かせる部分があったからである。

私がオペレーショナルエクセレンスの重要性を考えるようになった理由は、直近の人材業界とその前のゲーム業界の比較をする中で理解できたのであるが、企業の戦略の話などを読んでもなかなか出てこない視点であるため、覚えておいてもよい分析手法であると思う。以前、某外資系有名戦略コンサルティング会社のパートナーに人材紹介会社の差別化要因を聞かれて、オペレーション精度を上げるという話をして、戦略とは競合と違うことをすることだと文句を言われたことがあるが、ここまで述べてきた理由により、私はそのコンサルタントのほうが間違っていると思う。戦略コンサルティングと名乗る以上、プロダクトイノベーションやカスタマーインティマシー的な差別化要因を見いだせないと価値が出せないのであろうが、残念ながらそのようなものを見出しにくい産業というのは現実には存在するのである。

矛盾から逃げたら成長しない

矛盾とは何か?

ビジネスの意思決定をする際に立ちふさがる障害が「矛盾」である。矛盾を辞書で調べてみると、次のように定義されている。

矛盾(むじゅん)とは、二つ以上の事柄が一致しない状態、または、一つの事柄が自身の内部で一貫性を欠く状態を指す言葉である。矛盾は、論理学や哲学、数学などの分野で頻繁に用いられる。論理学では、矛盾する命題は同時に真であることができないとされる。これは「矛盾律」または「無矛盾律」と呼ばれ、論理的な推論を行う上で基本的な原則となる。 また、日常生活においても、人々の行動や意見、感情などが一貫性を欠いているときに「矛盾している」と表現されることがある。例えば、言動が一致しない場合や、自身の主張が以前の主張と食い違っている場合などがこれに該当する。このように、矛盾は様々な文脈で用いられ、その意味は文脈によって微妙に異なる。

出典:Weblio

要は、何かの決断をしなければいけないときに、明確な正解が見えず、ABどちらの選択しても、双方にデメリットがあり、一概にどちらが良いかと言えない状況になるケースである。

これと反対の状況というのが「白黒はっきりつける」というABどちらかの選択肢がある時に、論理的に考えてAまたはBのどちらか間違いなく正しいというようなケースである。

大学受験までの勉強というのは基本的には正解がある世界なので、問われる問題に矛盾点がないのが原則である。なぜなら、そうでなければ、客観的に採点が出来ず、公平な入学試験が実施できないからである。このため、ビジネス経験が浅い人の中には、ビジネスで直面する決断の場面において、選択肢のどちらかに正解があるのではないかと考えてしまう傾向が強い。

しかし、そもそもビジネスというのは、決断を迫られる状況における変数が複数あり、その変動が有機的に絡み合っているため、多くの意志決定のフェーズにおいてどちらかが絶対に正しいといえるような正解が明確なシチュエーションは、意外と少ない。つまり、白黒はっきりしないのである。

例えば、AとBの2つの選択肢があり、目標達成のためにAを選択し、結果的に目標達成ができたとする。ではAが正解であろうか?必ずしもそうとは言えない。なぜなら、Bを選択していた時に、Aを選択していた時よりも高いパフォーマンスを出せた可能性が否定できないからである。このようなケースで、Aを選択したことに対する私の評価は「不正解ではない」くらいであろう。

ビジネスには正解のない問題があふれている

この話をするときに私が思い出すのは、楽天時代に私にビジネスのいろはを教えてくれたある恩師の言葉である。彼は、

①ビジネスにおいて白黒はっきりさせられないような矛盾を孕む決断をしなければいけない状況は頻繁に発生すること。

②しかも、そのような状況は、責任ある立場(分かりやすく言えば組織のレイヤーが高くなる)ほど多くなり、しかも同時に解決しなければいけない矛盾の数が増えること。

③このため、ビジネスにおいて責任が重い、重要な決断を下すためには、複数の矛盾を抱える状況で、良い決断が下すための判断力を磨かなければいけないこと。

という3つのポイントをあげて、日々より良い決断を下し続けることが出来なければ、良いマネジメント人材になれないということを教えてくれた。この言葉は、私の心に非常に深く刻み込まれていて、様々な決断を下す際の拠り所となっている。

また、以前見たYoutubeの動画で脳科学者の茂木健一郎さんが言っていた言葉も、この話の流れに一致するものであった。彼は「本当に頭のいい人というのは答えがない問題を考え、正解を見つけられる人」であると言っていて、「正解がある問題に早くたくさん正解できること」が必ずしも頭の良い人の定義ではないという話をされていた。話しの文脈としては、日本の大学受験に依存する学歴による人の評価に意味はないという話題で出てきたのであるが、確かに、その定義であれば良い大学には入れたことが必ずしも頭が良いということに直結しないということになる。日本の大学で、最も偏差値が高いのは東京大学の理科三類といわれる東大医学部である。私の高校・浪人時代の成績を考えても、合格するイメージを持つことすらできないくらい高嶺の花であった。このため、間違っても私自身はそのようなことは言えないが、茂木さんの言葉を借りていえば、「医学」というのは、基本的に既存の研究で正解が分かっている事項を患者の状態に併せて治療方針として適用していくものであるため、前述の定義から考えれば、日本で一番成績が良い=勉強ができる人がワザワザやらなければいけない職業ではないのではないかと仰っていた。もちろん、医学にも未知の病気に対する新しい治療法を研究するという正解のない領域もあるので、この事例説明は、あくまでいち側面の議論であるとご本人も理解されていると思うが、日本で最も勉強ができて、頭が良い可能性が高い人を正解が決まっている臨床医にしてしまうのは、社会にとって損失なのではないかという問題提起なのであろうと思う(もちろん、最終的にどういう決断をするのかは個人の自由だが)。

矛盾を多く孕む問題の意思決定の仕方

と、ここまでで、ビジネスにおいては常に矛盾を孕む決断をしなければいけないこと。そしてその矛盾を同時に複数抱える問題に対する決断をより良く(正解がない以上、正しくではない)出来なければ、レベルの高いマネジメントができないということはなんとなくご理解いただけたかと思う。そのため、そのようなシチュエーションでどのように私たちが決断を下すのが良いのかの解決策を考える必要が出てくる。

もちろん、こちらも正解などないので、ここからの話しは私の実践方法についての、一事例の紹介だと思っていただければと思う。

私が、ビジネス上の意志決定を行う際に心がけているポイントは、整理すると下記の3点になる。

・一か八かの決断をしなければいけない状況をなるべく作らない

・大きな決断を下す前に、その判断に活用できる材料をなるべく多くそろえる

・事前に判断材料とする事例の背後にあるロジックを徹底的に考える

以下、一つずつ見ていくことにしよう。

一か八かの決断をしなければいけない状況をなるべく作らない

まず、一番重要なことは、可能な限り、一度に複数の矛盾を孕むような決断を一気に行わなければいけないようなシチュエーションを作らないようにするということである。もちろん、突発的なトラブルや、未知の問題が急に発生するなどの状況も無くはないが、25年の私のビジネス経験においても、本当にそのようなシチュエーションというのは、数回あるかないかという感じなので、基本的には、ある程度コントロール可能な問題であると思う。

そもそも、複数の矛盾を抱える複雑な問題というのは、その問題に絡む変数・パラメーターが複数存在し、それが複雑に絡み合っているために、ある変数を動かすと他の変数に影響して、予想外の問題を引き起こしてしまうという状況が発生する状況である。

これを上手く解決するためには、なるべく問題を単純化して、一つの施策の実行で一つのパラメータを動かしても、別の変数への影響が少ないように課題をブレイクダウンしていくのが最も素直なやり方である。楽天ではこれを「因数分解」と呼んでいいる。複雑な問題を因数分解することで、問題点の切り分けを行い問題をシンプル化して考えるということである

解決策として、そんなに特別なことではないが、これまでの経験上、やはりこのやり方が最も論理的に正しそうな決断をするのに有効であることは間違いない。

では、この因数分解を実行するために最も重要な要素はなんであろうか?私が最も重要だと思うのは「時間」である。一つの問題を因数分解して、一つ一つの要素を切り分けて考えるためには、当然時間がかかる。先ほど申し上げた、突発的なトラブルなどは、そもそも発生を予測することが難しいため、発生から決断までの時間が限られるため、複雑な問題を因数分解せずに一気に考え、決断しなければいけなくなるわけである。

このことを逆に考えれば、複雑な問題を一気に解決しなければいけない状況にしないために重要なことも自ずと分かってくる。つまり、問題解決の時間を事前にどれだけ長く確保しておけるのかということである。このために重要なのが、自分の関わる事業や企業の中長期的な問題点をどれだけ正確に分析・把握するということである。もしそれが正しくできていれば、あとはそれほど難しいことではなく、把握した問題点を正しく因数分解して、シンプル化された課題を一つ一つ解決していけばよい分けである。私は、これがマネジメントのレイヤーが高いポジション程、中長期視点、俯瞰的な視点で自社のビジネスを見ることが要求される理由であると考えている。自分が責任を持つ事業の中長期的な課題を正しく認識していれば、中長期の時間軸で課題解決の準備ができる。これが、上位マネジメント層の人間が、直近の目標達成にばかり目が行き、来月のことは来月考えればよい、来年のことは来年考えれば良い、3年後のことは3年後に考えればよいというスタンスで仕事をしていると、複雑な問題が突然発生し、その対応策を瞬時に、少ない材料で決断しなければいけないということになる。私は、このような決断を「ギャンブル」と呼んでいるが、常々自分の部下にも伝えているのが、日々の業務を一つ一つ積み上げ自分の業務からこのギャンブル的な要素を極力排除するということであり、また、そのような状況に陥らないように中長期的な視点で問題点の指摘をするように気を付けている。

どんなに優秀な人でも、あらゆることを予想することはできないし、天災や最近のトランプ関税のように(25年5月時点)予想を遥かに超えるビジネス環境の突発的な不確実性の増大など避けようのないものも存在するのは事実である。しかし、先にも述べたが、このような話しに対応するために、財務的な健全性を保つとか、バリューチェーンの分散化などのリスクマネジメントをしておく必要はあるが、完ぺきに回避することは不可能である。しかし、そのようなことは、10年に1回とかのタイミングくらいでしか起きない。私のビジネス人生でいえば、東北の大震災と新型コロナウィルスくらいであろう。

そのように考えれば、そもそも自分の事業や自分の会社が、頻繁にギャンブル的な決断を下さざるを得ない局面に直面しているとすれば、それはそもそも、中長期視点でのマネジメントができていない可能性が非常に高い。そして、申し訳ないが、そもそも中長期視点でのマネジメントをする能力がある人がいない職場において、より複雑で高度な問題点の解決を図れる能力がある人材がいる可能性は少ないと言わざるを得ない。

より良い意志決定をするためには、良い準備をしておくことが何よりも重要である。そのために最も重要な要素は「時間」である。このことを理解しておけば、マネジメントは、自分が動かせるリソースを、短中長期の視点で適切にアロケーションして、バランスをとるのかに、最も知恵を絞らなければいけないということが分かるのではないかと思う。

大きな決断を下す前に、その判断に活用できる材料をなるべく多くそろえる

ここまでで、複雑で、高度な問題に対する決断をするためには、因数分解をして、その問題をよりシンプルな問題へとブレイクダウンして考えることが重要だということがご理解いただけたと思う。そしてそのためには、準備をするための時間を確保するということが重要だという点も分かっていただけているはずである。

複数の矛盾を包含する複雑な問題を解決する上で重要な点は、自分が行った決断で、その問題が持つ各変数がどのように動き、トータルでどのような結果となるのかを、できるだけ正確に予測することである。この正確な予想をするために必要なのが、因数分解の結果シンプル化された課題への対応から得られるデータだ。例えば、Aという課題を因数分解すると、下記のように表せる問題があったとしよう。

A=B×C

B=D×E

C=F/(E+G)

この課題AはB×Cと因数分解することができるため、Aを増やそうと思うとBかCのどちらかを増やすことが必要になる。しかし、BとCを因数分解した式を見てみると、一つの矛盾が生じていることが分かる。Eの変数を見てみよう。BにおいてはEは掛け算の一変数であるため、Eが増加すればBは増加するという関係にある。一方CにおいてはEは分数の分母に含まれる変数であるため、Eの増加はCの減少の効果のある変数ということになる。

つまり、Aの問題の解決策として、例えばEの変数を動かそうとすると、Bにはプラスの効果があるが、Cにはマイナスの効果ががあり、解決策としては矛盾が生じるという結果が予想される。

例えば、Eの変数を動かす施策を行うときに、それ以外のD、F、Gの変数が不変であればEが1以上であればBの増分>Cの減分となるので、Aは増大することになる。このようなケースは一見、矛盾を孕んでいるようだが問題としては比較的シンプルに解決可能である。しかし、ビジネスにおける事象というのは、そのようにシンプルに進むことが少なく、Eの変数を動かしたときに、その影響でD、F、Gの変数が変動してしまうことがある。このため、シンプル化された改善策を行いながら、例えばEをどのように動かすと、それ以外の変数がどのように反応するのかというテストなど、D~Gの4つの変数を少しずつ動かしながら、どの変数をどの程度動かすと、それ以外の変数がどのように動くのかを把握しておく必要がある。その判断材料が十分に揃っていないと、Aの課題を解決する場合に、最終的にどの変数をどのくらい改善し、その結果発生する別の変数のデメリットをコントロールして、全体をプラスにするのかという論理的な判断が出来なくなってしまうのである。

逆に言えば、もし各変数の相互依存の関係が理解できていれば、矛盾する変数のプラスとマイナスを適切にコントロールすることによって、全体を改善の方向に持っていくことができるようになるわけである。

このプロセスを適切に行うためには、当然相当量のABテストを行う必要があり、それには時間がかかることは容易に予想できる。このため、どれだけ「時間」を確保できるかというのが問題になるわけである。

事前に判断材料とする事例の背後にあるロジックを徹底的に考える

ビジネスの環境は、自分たちで当初計画した通りのスピートで想定通り進むとは限らない。天災や、景気予測の変化、競合環境の変化など自社ではコントロールできない要因によって、計画と異なる状況に陥る。

そのような外部環境、外部変数の変化が自社のビジネスにプラスの要因となる場合は、当然大きな問題は発生しない。しかし、マイナスの要因が想定外に発生した場合は、問題になる。今回の文脈において、このような想定外の外部変数の変化で発生するマイナス要因の影響は、前2項で最も重要であると述べてきた「時間」について、想定よりも確保できる量が減ってしまうということで影響を及ぼす。前項の例を再度使えば、D~Gの変数の相互依存関係を適切に理解するために、ABテストを実施する期間が当初1年必要だと考えていたものが、外部環境の悪化で、計画達成のためには半年で改善を実現しなければならず、問題解決の決断を半年前倒する必要が出たとしよう。つまり、決断のための判断材料の収集期間が半減し、その結果意志決定に使える材料が半分になるということである。

このような状況においてマネジメントに求められるのは、当初想定よりも半分の判断材料で、如何にその倍の判断材料があった場合に出す結論に近い結論を導き出せるかの精度である。もちろん、理想を言えば当初想定していたすべての材料が揃っているに越したことはないが、中期経営計画実現のためには、その決断を半年前倒しせざるを得ないというようなケースに追い込まれることは珍しくない。

このような状況に対応するためには、何が必要であろうか?引き続き、前項の例で話を続けると、変数D~Gの相互依存の背景となるロジックを、ABテスト開始当初から注意深く観察し、可能な限り早期に理解できるようにしておくことが重要である。課題Aを解決するための変数D~Gの相互依存関係のテストを行う改善活動が1年間の期間で想定されている場合、そこから得られる情報量というのは私の経験上1年間均等配分で得られるわけではない。多くの場合、テストの初期の数カ月で基本的な動きの法則性のようなものは理解できることが多い。そして、その後の期間においては、変数の組み合わせをより複雑にすることによって、仮説として考える基本法則が正しいかどうか、想定していない依存関係がないかなどをチェックして、理解の精度をあげていく。つまり、結果的に半年後以降のテストで当初の仮説の間違いが発見され、半年間で得られた基本法則と異なる結論を1年後に出している可能性は否定できないが、当初の仮説が正しく、結果的に残り半年の精緻化をしなくても、1年後と同じ結論を半年間で出せる可能性もあるわけである。しかも、私の経験でいえば、その確率はそれほど低いわけではない(感覚的には50%以上の確率はある)。

ただし、実現するためには条件がある。それはマネジメントに責任を持つ人間がABテストの初期段階からプロジェクトの内容を正しく理解し、その結果を詳細に分析し、現場の担当者の報告だけでなく、その裏にあるロジック、法則性まで徹底的に考え抜くことに手抜きをしないということである。経験のあるマネジメントであれば、部下に提示した課題に対して、自己の過去の引き出しの類似事例からある程度の結果の予想はあってしかるべきで、テストの初期段階の進捗をみて、その仮説が正しいかどうかなどはある程度推測できるであろう。部下に対しては、自分の考えや予想をすべて話してしまっては学びが減ってしまうし、成長も遅くなるので言わなかったとしても、自分の頭の中では部下以上に様々なシミュレーションが動いていなければならない。そして、そのようなシミュレーションが動き、自分の想定とのズレが何処で、それがどのようなロジックで発生しているかを考えられれば、経験のあるマネジメント程、部下の報告内容以上に深い情報が自分の中にインプットされる。

以前に、チームのPDCAの精度を決めるのはチームのリーダーの経験値の上限であるという話を書いたが、チームをマネジメントするリーダーにチームで最も豊富な経験があれば、ここで話したように、「1を聞いて10を知る」ではないが、チームの誰よりも状況に対する深い理解ができていなければならないわけである。

お勉強ができるのと、ビジネスの問題解決は別次元の話

自分の学生時代を考えても、私自身はいわゆるお勉強ができる頭脳を持っているタイプでもなかったし、それを補う努力ができる性格でもなかった。このため、学生時代を通じて、明らかに自分より勉強ができる人は周りにたくさんいたし、話をしていて自分より頭の回転が早い人が確実いいるというのも感じていた。

しかし、25年ビジネスをしてきて思うのは、茂木先生の言葉ではないが、ビジネスでの意志決定というのは、必ずしも瞬間的な脳の回転の速さや、歴史の暗記問題のように、数字や、人の名前、歴史的な出来事の暗記量の違いで差が出るものではないというのは自信をもって言える。

ただし、今回説明したように、絶対的な脳の容量と回転スピードに対抗するためには、中長期的視点からのプランニング能力と、そこから逆算した事前の準備、そしてそれを可能にする自分の専門分野における経験値が必要である。この3つが揃っていて初めて、答えが存在しない、コントロールできない複数の変数が絡み合うビジネスの現実世界での、複数の矛盾を孕んだ複雑な問題により良い答えが出せるのである。そして、このどの能力も後天的に手に入れられるものであり、天才的な頭脳を持ち合わせていなくても実現できることだと思うわけである。というか、天才的な頭脳がない私は、そう信じている。

あふれる情報から真実と嘘を見分けるためには?

正しいニュースを見分けることが難しい

最近の私の悩みの一つは、インターネット、SNSを中心に莫大な量の情報が反乱する中で、何が真実で、何が真実でないのかが全く判断がつかないことが多いということである。一つの切っ掛けは、2015年にアメリカから帰国したときに日本ではそれまでとっていた新聞の購読をやめてしまったことなような気がしている。その時は、別に新聞にお金を出さなくても、ニュースはネットで見れば良いと軽い気持ちで決めたことであった。その後スマートニュースとGoogle Newsを主なニュースの情報源として、追加でSNSなんかも情報源として活用しながら生きてきた。日本に平均的に生きている日本人としては、特に代り映えのしない感じだと思う。

ところが、しばらくして気が付いたことなのだが、ネット上のニュースメディアというのはどんどんパーソナライズが進んでいるという事実である。私が読むニュースの内容に応じてどんどんパーソナライズされていくため、私としてはそんな期待はしていないのだが、私に配信されるニュースになんとなく偏りが出てくるようになってきた。SNSについては、私の過去の交友関係を基盤に、SNSで発信するのが好きな人がシェア、共有する情報に従って、情報がカスタマイズされるようになった。四半世紀以上デジタルサービスの提供側で生きてきたので、何故そのようなことになっていくのかという背景の理由は手に取るように分かるわけであるが、サービスを受ける側としては、ふと気が付くとひどく偏りのある情報ソースからの情報に自分の知識が偏ってしまっていることに気が付いた。

そう思ってTVのニュースなどを見てみたとしても、たいして重要と思わない内容に多大な時間が掛けられ、また、情報も表層的であることがほとんどなので、こちらも私の求めるものでもない。そう考えているうちに、そもそも昔読んでいた新聞もどこまで客観的であったのであろうと疑念も湧き始める。

このような状況になると、自分が生きている社会の情報で何が正しくて、何が正しくないのかという話が全く見えなくなってしまうわけである。最近の典型的な話題で、私が全く分からないのが兵庫県知事のパワハラ問題で、当初のマスコミの報道を見ていると到底再選などされないと思われた辞職した知事が、ネットにおけるマスメディアの報道とは全く異なる情報に押されて再選されたこと。そして、その後、県議会の公的な委員会において、結果的にパワハラが認定されたという報道が出てくること。でも知事は同じ問題で一度辞職し、再選されているので反省の弁は述べつつも、民意の支持を得て知事の仕事をし続けていること。そこまで興味もないので、私は事実を知らず、なんの政治的な意思もない前提で、いったい何が真実で、今の状況が正しいことなのか、誰かの嘘に先導されたあるべきでない状況なのかの判断が全くつかないわけである。ただ、この話で確かなことの一つは、TVをはじめとする(前述の通り新聞は私にとってはすでに存在しないメディアである)既存のマスメディアと言われているメディアに対して客観的な事実の報道をしていない可能性が高いのだろうという疑念を多くの人が抱き始めているということなのだと思う。

その極端な例が、アメリカの保守とリベラルの2極化である。日本人からするとトランプという全く下品な言葉使いの人物に過半数のアメリカ人が投票し、彼に言いなりの共和党議員に上院も下院も渡す投票行動を行ったのかが全く理解できない。しかし、その根底には、アメリカ特有のメディアが報道スタンスを明確にし、各メディアが正しいと考える立場で報道をおこなうというスタンスがある。メディアの立ち位置の表明がエスカレートして、「自分の価値観の会わないメディア(TVチャンネル)が報道していることは全てうそである」と理解されてしまったのだ。こうなると、あらゆるニュースが全賛同と全否定のセロサムゲームになってしまい、修復しがたい社会の2極化が進んでしまうという状況になってしまう分けである。

幸い、日本はまだそこまで酷いことにはならずに踏みとどまっているが、兵庫県知事選挙をみていると、多くの人がマスメディア自体への信頼をなくしている可能性が高い。そうなると、ネットメディアのパーソナライズのアルゴリズムにより偏ってしまった情報ソースへの依存度が高まり、思考が先鋭化してしまう。時期は分からないが、TVを代表とする既存メディア側が自分たちのあり方を抜本的に見直さないと、今のアメリカと似たような構造になってしまうのではないかと不安になる今日この頃である。

嘘の情報は生産コストが非常に低い

そんなことをモヤモヤ考えている時に見た、サピエンス全史の著者ユヴァル・ノア・ハラリ氏のインタビューがこの問題意識について参考になりそうな話をしていた。今回はそのインタビュー動画の内容から、深く同意し、私の専門分野のマーケティングにも役立つと思った話を紹介する。

その内容は、「情報」と「真実」の違いについての話である。ハラリ氏がインタビューで何度も言っていたのは、「情報」には多くのフィクション、嘘が含まれているという話である。この話は、前段の私の最近の悩みをお読みいただいた方には簡単にご理解いただけると思う。情報というのは、有象無象の内容が入り混じっており、必ずしも大量の情報を持っていることが良いことであるわけではないのである。しかし、問題はここからである。言われてみれば確かにそうなのであるが、ハラリ氏曰く、嘘の情報、フィクションというのは作るのが簡単であるのに対して、本当の情報というのは真実であることを証明するために多くのコストがかかるということである。

凄く分かりやすい例で考えてみよう。「私は1年で100億円稼げるビジネスモデルを考えた」という情報を誰かに話すケースを考えてみよう。まず、この話が嘘である場合のこの話の生産コストを考えてみよう。答えは限りなく「ゼロ」である。事実、私がこの嘘の情報を作ったのは、この文章を書きながらほんの10秒前に考えた話だからである。一方、私が1年で100億円を稼げるビジネスモデルを本当に思いつくためには様々な市場調査や、競合調査、さらにそれを実現するための人集めや資金集めの方法に至るまで様々なよりブレイクダウンされた情報を集約しなければならない。さらに、それらの情報を強固なロジックで構造化し、疑問点を指摘された時には論理的に反論できるだけの準備が必要である。

ニュースなどの情報についても同様で、嘘か本当か分からない「情報」を手にしたジャーナリストは、その情報が真実であるかどうかのファクトチェックをするための裏付け取材をしなければ、その情報が真実だと信じて報道することはできない。しかし、最近は、その裏付け調査などでもネット情報が活用されるので、「嘘の情報の裏付け情報として、嘘の情報を使う」みたいな話が現実問題多くの報道の現場で起きていたりするのではないだろうか?しかし、そのような情報をきちんと精査し、真実を見分ける客観的な確信を得るためには、ネットで簡単に見つかる2次情報に当たるだけでなく、時間とコストをかけて、批判的な意見も含めて様々な角度から情報を検証し、真意を確かめる作業が必要になるわけである。

嘘の情報が拡散するロジックとは?

というわけで、第1に「嘘の情報」は低コストで生産でき、「真実」にはコストがかかるということまではご理解いただけたであろうか?ここまで同意していただいたとして、この性質は次の問題を引き起こす。それは、生産コストが安い嘘の情報というのは、大量に生産され、どんどん人に魅力的に写るものへと変容していくのである。これも少し考えれば想像できるであろう。生産コストが安くなれば、人はどんどん情報を拡大再生産してしまう。そして、せっかく生産するのであれば、その情報は人に興味を引いてもらえる魅力的なものである方がよい。分かりやすい例は、自分の過去の体験談などを他人に話すときに、面白おかしく伝えるために少し「盛る」ことがないであろうか?私自身もあまりないようにしつつも、時に誘惑に負けてしまうことがないとは言えない。本人は悪気なく少し「盛った」だけのつもりかもしれないが、こういう話というのは伝言ゲームで人から人に伝達される過程で、少しずつの「盛り」が重なることで、何ステップか先では全く原型をとどめない、とても魅力的な嘘の体験談になったりしてしまう分けである。この例ではそれほど悪意はないかもしれないが、嘘の情報にこのような性質があることをが理解できれば、悪意をもって嘘を拡散しようとする人にとっては、嘘の生産と拡散というのは容易な作業であるということが想像できるであろう。

ここまでの話しは、人類が言語を話し始めた時から基本的には変わらない真実であるような気がする。しかし、この「嘘の情報」と「真実」の違いが、原題のネット、AI社会になることによって、私たち人類が体験したことがないリスクを生み出しつつある。

多くのネットメディアというのは基本的に情報を「嘘か真実か」という視点で良し悪しの判断をしているのではなく、「多くの人に賛同されているか否か」で判断していることが多い。多くのネットメディアというのは、広告収入で収益を得ている。そのこと自体は、消費者が便利なサービスをネット上で無料で使えるという利便性を得られているという事実を考えれば一概に悪いことではない。しかし、このメディアの性質が、先ほど説明した良い情報の判断基準をあまり良くない方向に変えてしまう。

オールドメディアのTVの視聴率も同じ側面があるが、広告収入を基盤とするネットメディアが売上を増やそうと思った時に最も重要な指標は、ユーザーのサイト滞在時間を最大化するということである。ユーザーが高頻度でサイトにアクセスし、一回当たりの滞在時間も大きくなれば、当然それだけ広告を販売できる枠数が増えて収益が増大するからである。この基本ロジックを理解すると、先ほど申し上げた「多くの人に賛同されているか否か」が情報の良し悪しの判断基準になることも理解できるであろう。多くの人が面白い、興味深いと考えている情報というのは他の人にも賛同してもらえる可能性が高いので良い情報ということになるわけである。さらに、今のネットメディアというのは誰がどの情報を見たかどうかという行動データが蓄積されているので、この情報を良いと言っている人は別のどの情報に興味を示しやすいも類推できることが多く、この情報がどんどん蓄積されると、一人一人にかなり正確なパーソナライズができてしまう。ここに、前段で述べた「嘘は低コストで魅力的な情報を拡大再生産できる」が合わさると最悪な事態が起こるわけである。当然人に魅力的に写る情報は、メディア上で高く評価され、賛同を得る可能性が高い。そうすると、魅力的な嘘の情報というのはネットメディアにおいては、高く評価され、アルゴリズム上どんどん拡散されてしまう可能性が高いのである。そして、それが拡散され続けると、多くの人が事実と誤認してしまい、いつの間にか嘘の情報が真実であるかのように人々に広まってしまうのである。

ビジネスで正しい情報を見分ける方法を考える

ハラリ氏のインタビューを見るまで、情報の生産コストという視点を深く考えていなかったため、整理が甘かった部分はある。しかし、長くネットビジネスをしてきて、その危険性はずっと感じていたため、私自身はSNSという媒体をパーソナルにはほとんど使わなくなってしまって久しい。但し、個人の生活においてはそれで問題ないとしても、マーケターとしてはそうもいっていられないわけである。最後に、この情報に多くの「真実でない情報」が混在している社会の中で、マーケターとして情報=データとどのように付き合っていかなくてはいけないかについて考えたいと思う。

私が、ビジネスにおいてデータを扱う際に気を付けているポイントは以下の通りである。

  • データの定義を明確にする
  • KPIツリーを作ることによって、一つ一つのKPIの関連性を理解する
  • データの変化を確認する場合は、一段下のKPIツリーのレイヤーに要素を切り分け(因数分解)、各パラメータ毎の変化の状況を確認する
  • 過去のトレンドを見て、一定期間の変化のボラティリティの範囲を理解し、変化がその範囲内に収まるかどうかを判断する

の4点くらいに大きく分けると集約される。それぞれ個別に見ていこう。

データの定義を明確にする

まず、データを見るときに最も重要なのは、そのデータの定義を正しく理解することである。これは、余りに当然の話しで、あえて説明するようなことでもないと思われるかもしれないが、ビジネスの現場で議論をしていると、同じワードを使っていたとしても、会社毎、部署ごとにその言葉の定義が異なっていたりする。このため、議論するデータについては、最初にその定義を必ず確認することは必須である。

そのデータはA×B、A/Bなど、どのような算式により計算されたものなのか。計算に利用されるA、Bなどの構成要素はどのような期間、どのような取得方法で得られたデータであるのか。そもそもそのデータの取得方法は統計的に信用しても問題ない情報源であるのか。などを正しく理解することで、そのデータが真剣に分析する価値のあるものなのか、それに値しないのかなどが理解できるようになるであろう。

KPIツリーを作ることによって、一つ一つのKPIの関連性を理解する

ビジネスのデータを見るとき、特に重要なのは、そのビジネスの基本構造を理解するための、一つ一つのKPIの関係性を正しく理解することである。情報・データに関するよくある誤解は、情報、データはたくさんあればあるほど良いと考えるスタンスである。これまで経験した多くのビジネスにおいての見てきた情報整理、データ分析においての失敗要因は、データはあればあるほど良いという前提のもと、データをとにかく大量に集めて、その構造を深く考えずにディテールの分析をしてしまうというパターンである。前段で述べたデータには真実とフィクションがあるという話しに関連するが、大量のデータからいきなりディテールの分析に入るというスタンスでデータに向き合うと、重要でないかもしれないパラメータの変化を課題に評価してしまったり、一般性のない結論を一般的なロジックと勘違いしてしまうなどのトラップにはまってしまう危険性が高まる。

このようなトラップを踏まないためには、一つの会社や事業を理解するためのビジネスの基本構造をKPIのツリーを使って一つずつ因数分解して、情報の重要度を階層分けしていくことが欠かせない。

この構造化ができると、組織の階層ごとにそれぞれどのレイヤーのデータまでは定常的にチェックし、それ以下のレイヤーのデータの変動にはなるべく口を出さない(権限移譲する)などのマネジメント上の責任分担の切り分けなどもしやすくなり、社内のコミュニケーションがスムーズになり、現場の創意工夫の権限の範囲も計画になったりもする。

データの変化を確認する場合は、一段下のKPIツリーのレイヤーに要素を切り分け(因数分解)、各パラメータ毎の変化の状況を確認する

データの定義とKPIツリーができれば、いよいよ定常的にデータを見ながら、必要に応じて分析を行うという段階に移行する。この時に最も重要なのは、数値の変化の理由を常に理解するというスタンスである。よくある意味のないデータへの向き合い方が、目標KPIの達成率を毎日見ながらその良し悪しに一喜一憂するというものである。気持ちは分からないでもないが、はっきり言ってこれだけをして、良ければ部下や代理店と喜び、悪ければ文句を言って改善策を出させるという人は私からすれば百害あって一理もないタイプの人材である。

KPIを正しく作れば、目標とするKPIが変化すれば、必ず因数分解したパラメータの何が動いて、何が動いていないのかなどの理由が分かるはずである。例えばA×Bで構成されるKPIが上昇した場合に考えられるバターンは、AとBの両方が増えた場合、Aの上昇率がBの下落率より大きかった場合、Bの上昇率がAの下落率よりも大きかった場合の3つのパターンが考えられる。つまり、AとBが両方とも増えているケースは問題ないのかもしれないが、残りの2パターンはどちらかの要素は改善しているが、もう一方の要素は悪化しており、KPIの改善を手放しで喜んではいけないのかもしれない。この例は非常に単純だが、一つのKPIを単体で見ること自体に対した意味がないことはご理解いただけると思う。

データというのは単純に豊富な種類の情報があれば良いわけではないのは前述の通りだが、最重要KPIを単体でみることにも同様に意味がない。数字の動きの背景にあるロジックを常に意識しながら見ることが非常に重要である。

過去のトレンドを見て、一定期間の変化のボラティリティの範囲を理解し、変化がその範囲内に収まるかどうかを判断する

データの変化についてはもう一点考慮すべきポイントがある。重要KPIと因数分解したパラメータを見る場合に、それぞれの数値がどの程度のボラティリティがあるのかという時系列のトレンドをきちんと把握して、その範囲内であれば余り大騒ぎせずに、立ち止まって見守る勇気を持つべきであるということである。

ビジネス上のKPIの数値にボラティリティが出る理由は様々である。例えば、事業規模が小さかったり、プロジェクトの予算規模が小さい場合、統計的に月次の数値は一定のレンジで安定してオペレーションすることができてもそれを日次の数字に細分化すると、良い日もあれば悪い日もあるというように、平均的なパフォーマンスを出せないケースがあったりする。このようなケースのほとんどは日次ベースでは統計的に十分な母数がないために、パフォーマンスに差が出てしまうことが原因である。若しくは、ビジネスサイクルとして、1カ月間の間に、月初、中旬、月末のような活動のトレンドがあり、1か月分の成果の30分の1が安定して日次の数字にならないというケースもあるかもしれない。

重要なのは、数値の変化を見るときに、今自分が見ているメッシュの数値のトレンドを把握したうえで変化をみるということである。

この視点で考えるときに最もよくない行動は、一日の好不調に一喜一憂するだけならまだしも、悪い時にいちいち反応して、不要な改善策を無理やり考えて実行してしまうことである。PDCAの高速回転が重要だという話をすると、たまに勘違いしてとにかく短い時間単位で対策をすることが重要だと勘違いする人がいるが、正しいPDCAとは、統計的に信頼できる分析結果に応じて改善策を検討することが大前提であるため、前述の例のように、トレンド上避けられないパフォーマンスのボラティリティに無用に反応して根拠のないPlanを立てて実行してしまうというのは、精度の低いPDCAになってしまうと考えてほしい。

以上、データを見るときに考慮すべき4つのポイントについて見た来たが、特に特別なことは言っていない思う方が多くいらっしゃると思う。私も書いていてそう思う。至極当然のことを言っているだけである。しかし、私が経験した多くのビジネスの現場でこの4点が徹底されてオペレーション、PDCAが管理されている現場というのは残念ながら意外と少ない。その理由は、前段で紹介したハラリ氏の「真実でない情報」の魅力の話を考えた後では、読者の方にもご理解いただけると思う。

データに向き合う悪い2つの典型例

 情報やデータに向き合う際に、最も良くない態度は、いわゆるCherry Pick・いいとこどりと、都合の悪いことに見て見ぬふりをすることである。このような態度は、例え利用している情報が「真実・事実」だとしても、ビジネスの構造全体の中での正しい関係性の中で数字を見られていないという意味で、残念ながら「真実でない情報」を利用してビジネスを進めているのと何ら変わらない。

もう一つの良くない態度の事例は、特に計画通りに事業が進捗していないときによくあるが、無理やり上手くいっていない理由を作り出すことである。これば、特に「数値にこだわる」というような言葉で、目標達成、厳しい数値管理をする会社や組織の悪いパターンとして表出することが多い。このような会社では、事業進捗が悪いと厳しい追及を社内で受けることが多い。そのような場合に、ある部署の責任者は上席者に対してパフォーマンスが不調な理由を何らか説明せざるを得ない状況に追い込まれる。この時に、理由が分からなければ、「分からない」と報告する勇気があればよいのであるが、過去に上席者がそのような報告を許さないような態度をとってしまったりすると、その配下の人間はなんでも良いので報告できる問題点を無理やり探すという行動に出やすい。そして、それを原因と言ってしまった都合上、それに対する対応策も報告せざるを得なくなる。そうすると、嘘かほんとかわからない問題点に対する対応策をチームみんなで実行せざるを得ない。このような話しは第3者的に見ていると馬鹿らしい話しに聞こえるが、厳しくマネジメントされている会社においてはよく見るケースである。このケースで最も重要なことはビジネスでは情報を集め、データを分析しても「分からない」ことは少なからずあるということだ。これを報告を受ける側もする側もきちんと認識しないと、組織は「真実でない情報」でいつの間にか運用されてしまうことになる。

情報・データから正しい情報を得るためには基本を忘れてはいけない

もちろん、大規模なデータを取り扱うにはそれなりのスキルが必要である。しかし、それにはたくさんの良いツールがあるので、それは勉強すれば解決する問題である。しかし、ここまで見てきたように、最も重要なのは、言われてみれば誰でも分かるような情報やデータをみる基本的なスタンスをどれだけ忠実に守り、正しい視点で分析することを突き通せるかという個人の意思とか、マネジメントの態度であるということが分かっていただけると思う。

情報と真実には大きな差がある。そして、「真実ではない情報」ほど魅力的で、拡散されやすいというハラリ氏の分析は非常に的を得ている指摘である。この金言は、私たちがビジネスを進めていくうえでも、深く心に刻んでおかなければいけない「真実」であると思う。

はやり言葉に飛びつかない

次々に生まれてくる流行のビジネス用語

四半世紀近くデジタルマーケティングをしていると、つくづく思うのは、次々産まれてくるマーケティングの「流行り言葉」に意味があるのかということ疑問である。もちろんそれは、マーケティングの世界だけでなく、ビジネスの世界ではよくある話であると思う。

この話の流れで、このような発言をすると私が嫌いなことがバレてしまうが、最近の代表例が「パーパス経営」とか「ESG経営」みたいな話である。ただ、誤解していただきたくないのは、私は企業に事業を行う目的がなくても良いと言っているわけでも、環境(Environment)への配慮、社会(Social)的な貢献や良好な関係性、ガバナンス(Governance)の効いた経営体制が必要ではないと言っているわけではない。私が嫌いなのは、このような言葉がはやると、それに飛びついて、それ以前にやっていたことを忘れてしまうような人、特に経営者が少なからずいることである。

経営学という学問は、基本的には実証科学的な側面が強い学問であるので、新しい流行り言葉が出てくる場合には、それを体現している成功事例があり、その比較対象とされる失敗事例がある。実証科学というのは、基本的には成功事例の共通点と、失敗事例の共通点を探して、成功事例の共通点Aである時、失敗事例の企業の共通として「Aがない」という状態になっていれば、Aを成功法則として認定すると考える。

つまり、実証科学というのは、はっきり言えば後付けの理論な分けである。

理論化前の企業と理論の再現者の違い

「後付け」であるということは、どういうことであろうか?それは、理論構築の過程で成功事例として取り上げられた企業の経営者や社員というのは、そもそも理論ができる前からそのような行動や意思決定を選択していたということである。その理由とは、様々であろう。先行している別の理論に影響をされていたり、誰にいわれるでもなく経営者/経営層のメンバーが自己の価値観として重要だと考えていたなどが考えられる。そして、そのような人たちは自分たちが提示、社員間で共有している価値観のようなものが「パーパス」という言葉でカテゴライズされているかどうかは、そもそも、理論が公表され、一般化される以前には考えもしていないはずである。

ところが、自然科学と経営学との違いは、理論が一般化した(流行りだした)後にうまれる。自然科学というのは、基本的には自然の法則をあと後付けで実証したとして、その理論が自然の法則を変えてしまうようなことは基本的にはない(最近の遺伝子操作などはその範疇を飛び出してしまうかもしれないが)。一方経営学というのは、その理論が世の中に広がり、「良いもの」であると認定されると、それに影響された人たちが成功法則の横展開として行動を変えてしまうという特徴がある。もちろん、経営学の役割自体が企業経営の成功法則を理論化し、他の人でも再現性のある形で一般化するということにあるため、そのこと自体は大きな問題ではない。

ただ、問題なのは、その横展開の仕方である。流行り言葉というのは、流行の初期の段階では、流行の起点となった理論(提唱者の論文や、著書)を読み、理解し、共感した人が主体であることが多いので、理論の構築者の意図に沿った形、近い形で広がっていくことがおそらく多い。しかし、流行が広まる過程において、伝言ゲームのように、その意味や内容が正しく理解されないまま、変質・変容して広まっていってしまうことが多い。結果として、ブームに乗って新しい手法を取り入れた企業というのは、残念ながら形だけの模倣をしただけで、流行を取り入れても上手くいかないという話になりがちになるわけである。

パーパス経営に至る経営学の流れ

例えばパーパス経営について考えてみよう。まず、先行理論の話から考えてみる。私自身がすべての理論をトラックしていない前提で、普通にビジネスパーソンとして生きてきた中で耳にした範囲での知識でいえば、先行していた最も影響力のあった理論、考え方は「ビジョナリーカンパニー」であろう。この本で提示されていた議論は、数十年にわたって長期的に成功している企業を統計的にピックアップし、その成功の共通点を探り出したところ、一貫した「ビジョン」が明確で、それを企業の意思決定の基本的価値観として共有し、そのビジョンに共鳴した社員は比較的勤続年数も長く、経営トップも比較的生え抜きが選ばれている。みたいな話が語られていた。さらにさかのぼれば、企業経営にミッション(Mission)、ビジョン(Vision)、バリュー(Value)が重要だといったピーター・ドラッカーにまで遡るということになる。

これに対して、パーパスという話が何処から出てきたのかといえば、アメリカの世界最大規模の資産運用会社のブラックロックのCEOであるラリー・フィンクが、2018年に企業経営者に向けて企業にとって優れた業績だけでなく、社会への貢献(=パーパス)が重要であると提示したことから始まると言われている。

おそらく、理論でも重要とされているのは、株式会社というシステム上、必然的に株主に対する投資リターンの提供が最重要視され、特に四半期ごとの業績開示に向けた短期的な業績向上に重きをおいた経営判断をする経営者に対するアンチテーゼ的な長期目線での企業戦略の一貫性をどのように担保するのかという視点であると思う。多くの経営者、特に、任期が4-5年程度のいわゆるサラリーマン経営者的な経営者が自分の任期中に良い業績を出せばよいというような視点で経営をされてしまうと、経営者が変わるたびに経営方針が変わり、長期的な企業成長のトレンドを確信できないということになってしまうわけである。

流行りのパーパス経営の実践のありがちなパターン

もちろん、細かく見ていけば、MVVとビジョナリーカンパニーとパーパス経営には理論的な違いはある。ただし、残念ながら経営理論が企業の現場で実践される場合において、そこに参加する多くの社員が、流行の初期のように一次情報を綿密に理解して、以前の理論との差異を意識していることなどほとんどない。例えばMVVは社会から自己を見たときの客観的な視点を主軸にしたものであり、パーパスは自社・自己の内部から発せられる主体的なものであるという説明がなされるが、私自身もなんとなく言いたいことは分かるが、MVVを社内で考えるディスカッションと、パーパスを考える社内ディスカッションの間に、理論家が言う客観性と主体性の違いが出るような想像が現実的にはできない。なぜなら、その実現のためには、その議論をリードする人材が相当精緻に理論を理解していなければいけないからである。

このように考えると、実際の実務の現場において、MVVとパーパスの間には、それほど大きな違いは現実問題としてはないと考えたほうがよいと思う。そして、仮にこの前提が正しいとして、経営者が、「最新の企業経営のトレンドはパーパス経営である。我が社はこれまで、近しいものとしてMVVを掲げてきたが、これからはパーパスを掲げたいと思う。よって、全社的にプロジェクトを立ち上げ、これから30年使えるパーパスを作ることにしたい。」と言い出したら、あなたはどう思うであろう。

このようなケースの場合、あり得そうな後日談は何パターンか考えられる。

①MVVが社員に共感され、実践されているものである場合

MVVがよく練られたものであり、社員の行動規範として実践され、共感も得られており、企業としても成長できている場合、MVVはその企業の実態に即したものになっている可能性が高い。その場合、新しく制定されるべきパーパスは、MVVを踏襲したものでなければならない。もちろん完ぺきな物などないので、時代や環境に合わなくなった点など改修すべきポイントがあればこれを機に変更・追加を行ってもよい。

しかし、前提となるMVVから大きく逸脱するものであってはならないし、その必要もないと考えるのが必然である。

もしそうであれば、はっきり言えば、経営トップが大騒ぎしてMVVを流行りのパーパスに変える理由があるとも思えない。

②MVVは制定されているが、特に浸透も共感もされていない

このような会社の問題点は、MVVかパーパスかという問題ではなく、そもそも会社全体の目的やビジョンが社内に提示されていない・浸透していないこと、また、それに付随する一貫した行動規範が現場で実践されていないこと自体が問題であるケースが多い。このような企業の場合、十中八九、パーパスを新たに新設したところで、MVV同様に絵に描いた餅になる可能性が著しく高い。

大体、MVVでもパーパスでもどちらでも良いが、企業がこのようなものを設定した場合、浸透セッションみたいなものが行われ、社員が集まって、MVVについてディスカッションするみたいな機会が設けられ、自分たちの会社について考える機会を作ろうみたいなことが行われる。

私もそのような会に社会人人生で何度も参加したことがあるが、大抵そのような場は高い同調圧力がみなぎり、私のように現実から見た正論で否定的なことを言い出したりすると会の趣旨から反するので、冷ややかな目で見られることになる。そして、大人な人々は、事後アンケートとかでも、「会社について、自分の仕事について考え直す良いきっかけになった」みたいなコメントを残し、経営会議でそのような集計結果が報告され、経営陣みんなで安心するみたいなことが行われるのであるが、このようなわけのわからないセレモニーに何の意味があるのか全く理解できない。

私の見てきた多くの会社で、MVVやパーパスが絵に描いた餅になっている原因は、そもそも経営者がそのような社会的意義のようなものに興味がないか、それよりも目先の業績の話しか部下にしないケースが多いように感じる。そのような状況になると、大抵現場の社員たちは、パーパスとかMVVなどどうでもよく、とにかく短期的な業績を最大化することに心血を注ぐということになるわけである。

③MVVはそれなりに浸透も共感もされているが、別のパーパスを作る場合

せっかくMVVからパーパスに変えるのであるから、今までとは違うものを作らなければいけない見たいな話になると、そもそもMVVやパーパスが何のためのものなのかという話になる。

MVVもパーパスもそもそもは、短期的な業績よりも重要な長期的な企業の存在意義を提示するためのものである。と考えれば、そう簡単にコロコロ変わるはずのものでもない。以前、企業の戦略が変わればMVVやパーパスも変わるといった経営者がいたが、この議論は、戦略が最上位に来てしまっているので、そもそもの位置づけを理論通りに理解できていないということになる。

理論の本質的な意味を理解して実践することが重要

このように考えると、ネーミングがどのように変わろうと、自社の長期視点での位置づけや価値観のようなものはそもそも流行にのって、頻繁に変えるようなものではないということになる。

私が思いつくパターンはこの3つくらいであるが、どのケースにおいても、パーパス経営という言葉が流行ったからと言って、それを自社にすぐに取り入れなければいけないということにはならないというのがお判りいただけるのではないか。

より重要なのは、ネーミングに関係なく、自社に短期業績を超えた、中長期的目線での位置づけ、価値観が設定されており、それが社内に浸透し、行動規範にまで落とし込まれているのか、社員から共感を得ているのかということに目を注ぐべきである。

そして現時点でそれができていないのであれば、MVVかパーパスかを議論する以前に、そのような視点が自社の経営に欠落している原因をマネジメントメンバーで議論すべきである。

逆に、それができていて、投資家の目線や、採用の目線で、流行りのパーパス経営を取り入れていると見せたいのであれば、既存の社員には「社会的要請で、MVVをパーパスに変更するが、私たちの事業に取り組む姿勢、価値観には何ら変更はない」と宣言すれば良いだけのことだと思う。むしろ、そのほうが、社会の流行がどう変わろうが、我が社は一貫した目線で経営が行われている会社であるという安心感が得られるであろう。

消えていったマーケティングの流行り言葉

とここまでで、私が嫌いな実態の伴わないことが非常に多いMVVとかパーパスの話を例にして話したが、同じような話は、当然私の大好きなマーケティングの世界にも山のように存在する。

例えば、SaaS(Software as a Service)という言葉があるが、昔はASP(Application Service Provider)を言われていた。どちらも、アプリケーションを個々のユーザーのPCやスマートフォンにインストールすることなく、主にブラウザや、インターフェース用の簡易的なスマートフォンアプリなどでサービスを提供するネット上のビジネスのことを指している。何も本質的でないので、誰が何時読み替えたのかは知らないが、わざわざ新しい用語を作り必要性を全然感じない。

CRM系のマーケティングの用語も、何やら同じような言葉がいっぱいある。私はCRMでいいと思うが、例えばリードジェネレーションとか、リードマネジメントとか、ロイヤリティマーケティングとか、今使われている用語でももちろん細かい定義としては少しずつ違うのであるが、もう覚えてもいない似たような用語がこの20年間でたくさんあった。私から言わせれば、見込み顧客を顧客DBにためておいて、メールなり、SMSなり、LINEなり様々なタッチポイントを経由して、収益転換させるための手法の細かなパターンの違いでしかない。

Webのマーケティング用語時点にすでに載ってもいないが、私がマーケティングを始めたことを、この辺の手法をパーミッションマーケティングと言って、業界の流行語になっていた。よく読んでみるとタダのメルマガを丁寧にやりましょうという話でしかなかったが。

良い例がないかと、Web上のマーケティング用語時点みたいなものをいくつか見ていたら、オムニチャネルマーケティングとマルチチャネルマーケティングの違いの説明をしていて結構びっくりした。そもそもオムニチャネルという言葉も、一時期の流行り言葉で、最近はほとんど聞かなくなってしまったが、25年オフラインも含めたあらゆるデバイス、媒体を使ってマーケティングをしてきたが、自分がやってきたマーケティング活動が、オムニチャネルマーケティングなのか、マルチチャネルマーケティングなのかははっきり言って全く分からないし、その違いを認識していることに全く意味を感じない。

では、なぜこのような言葉が次々と生み出されるのであろうか?おそらく、それは理論家であったり、コンサルティング会社であったり、本の著者であったりが、自分の言っていることを新しいものであるというように見せるためのブランディング、ポジショニングの明確化であろう。つまり、この流行り言葉自体が誰かのマーケティング活動の一環であるので、本質的な意味の違いが大きくないケースの多いのだろうと思っている。

言葉の本質を理解して、言葉の内容の新しさを検証する

私はこれまで多くのマーケターを見てきた。中には非常に勉強熱心で、最新のデジタルマーケティングテクノロジーの情報を、大量に持ち、教えてくれるような部下も何人も見てきた。もちろん、勉強熱心なことは素晴らしいし、そのような人が周りに何人かいると、世の中のトレンドが分かるので大変ありがたい。

ただ、そのような人がマーケターとして長期的に高次元のスキルを獲得できるかどうかは残念ながら別問題である。なぜなら、ここで事例をあげたように、新しく生み出される流行り言葉というのは、基本的には既存の物の見方を少し変えているだけで、8割がたは同じことというようなケースが多いからだ。もちろん、たまに、2年前のChatGPTのように、今後のビジネスの流れ、マーケティングのあり方を根本的に変えてしまいかねない超ド級のインパクトのあるものが紛れ込んでいたりするが。

そのように考えると、大事なことは、新しい言葉が流行りだしたときに、それが今まで自分が使っていたどの概念と近く、その違いがどこにあるのか?その違いの量は、新しい言葉として区別しなければいけないほど重要な違いなのかを考えることが重要だと思う。そして、大した違いはないとか、オペレーションの精度の違いであり、自分がやっているオペレーション精度であればわざわざ新しい言葉を使わなくても、すでに実践できているというような場合は、無理に新しい言葉など使わなくてもよいのだと思っている。

なぜなら、私の経験上、そういう言葉というのは、1-2年経つと自然と消えてなくなってしまうからだ。

流行りのビジネス用語というのは、知らないと恥ずかしい、勉強していないと思われるので、なんとなく多用しないと恥ずかしい感じがする。しかし、重要なのはその言葉の本質をどれだけ理解しているかである。言葉を知っているだけで、実践できていない人というのは、結局Input過多で、Outputが伴わないので、知識がスキルアップに結びつかない。くれぐれもそうならないように、InputとOutputのバランスを心がけていただければと思う。

※ちなみにこの文章を書くのにBuzz Word・バズワードという言葉を使わないで書くと決めて書き始めたが、なんとも不便を感じるのも正直なところである。。。

普通じゃないことを追及する

ChatGPTの1年の進化に驚愕する

ChatGPT4を使っていて、1年前のChatGPT3との能力の違いに正直圧倒されているが、その能力値が上がれば上がるほど、考えるのは、これから自分がやる、人間がやる仕事というのは何が残るのであろうということである。以前にも似たようなことを書いたが、私個人はFIRE(Financial Independence, Retire Early)というものには全く興味がなく、仕事以上に面白い趣味もないので、少なくても70歳くらいまで、あと20年くらい働きたいと思っていて、ChatGPTが出始めたときは、その能力に驚きつつも、20年くらいは自分の仕事は残っているであろうと気軽に考えていた。

しかし、この1年くらいのChatGPTの進化を見ていると、だんだんその自信が揺らいできて、70歳まで働く気満々でも、気が付いたら自分が付加価値が出せる仕事など残っていないのではないかと思い始めるようになった。

シンギュラリティという言葉がある。日本語でいえば、技術的特異点と訳されるそうだが、分かりやすくというとAIが現在のLLMのように機械学習を自己フィードバックの中で行い知能レベルが向上していく中で、AIが人間の知能を超える瞬間を表現する言葉である。これがいつ来るのかというのが科学者の間で話題になったりしているわけである。

囲碁におけるシンギュラリティ

この話に関わり先日聞いて驚いた話が、囲碁の話である。脳科学者の茂木健一郎さんが、現在の日本囲碁界で最強の一人と考えられ、近年に日本の棋士が勝つことが出来なかった国際棋戦においても20年近くぶりに優勝したという、おそらく現在世界でもトップクラスの実力を持つ一力遼四冠の話として語っていた内容である。

もともと、囲碁というのは将棋やチェスト比較しても一手一手の理論上の選択肢の数が膨大に多く、単純な先読み的な打ち手予想の選択肢が莫大になってしまうという性質から、単純な最善手をどれだけ先読みして見つけ出すのかというそれ以前のAIのプログラムの開発のロジックでは人間に勝つAIを作ることは不可能であろうと考えられてきた。ところがGoogleが買収したDeepMind社が開発したAlphaGoというAIが、それまで最善手探索型のプログラムではなく、現在のLLMをはじめとする多くのAIの基本的な原理であるニューラルネットワークを活用した機械学習型の原理を用いて登場したことで状況が一変する。このAIが、当時世界トップクラスの棋士と考えられていた中国や韓国の棋士に勝ってしまったのである。2017年前後の話なので、今からわずか8年くらい前の出来事である。この衝撃は大きく、このAlphaGoの成功が切っ掛けとなり、現在につながるAI開発の一大ブームが巻き起こったといっても過言ではない(少なくても切っ掛けの一つではある)。

ということで、囲碁とAIの関係というのはAIの発展において密接な関係性があったりするのであるが、驚くべきはその8年後の現代における両者の関係についてである。現代のトップ棋士の一人である一力四冠も当然勉強・研究のためにAIは活用しているそうなのだが、最近はトップクラスの棋士でもAIに勝つのはほぼ不可能というレベルにまで差がついてしまったそうである。まだそれだけであれば、その可能性はあるだろうなと思って聞いていたのだが、その次の言葉に本当に驚いたのである。なんと、トップクラスの棋士が、AIが打つ手を後付けで分析しても、なぜAIがその手をその時点で最善手として選択したのか自体が理解できないところまで差がついてしまっているということである。この話が意味しているところが何かといえば、囲碁という非常に限定されたルールの世界のこととはいえ、囲碁の世界においては、一般社会においていつ来るかと議論されているシンギュラリティがすでに来てしまっており、今のトップ棋士たちはポスト・シンギュラリティの世界を生きているということになるわけである。

このことから分かるのは、囲碁のようなルールの制限がある世界においては、AIが持つ膨大な知識量(データ量)と、瞬間的な情報処理能力を組み合わせると、人間には到底及びもつかない思考能力差になってしまうということであろう。

「普通じゃない」はAIに対抗するキーワード?

この話を聞いて、最初の話に戻ると、5年後、10年後に今のLLMの進化スピードを考えると、私たち人間に残される仕事というのは何があるのだろうと考えざるを得ないし、大きな不安を感じるわけである。囲碁の世界でAIが人間と対等レベルの知性を持つところから、明らかに人間の能力を超越してしまうまで、事実として10年とかかっていないのであるから、今の仕事の領域においても、一旦AIに人間の能力が並ばれてしまったら、普通に考えればその分野におけるAIの能力は10年以内に人間を遥かに超えてしまうと考えるほうが自然であるといえる。

一方で現実の世界で様々なクライアントの事業改善や、自分で作ろうと思っている事業構想などをしながらいろいろ考えるわけであるが、最近自分の中のキーワードで重要だと思っていることがある。それは、

「普通じゃない」「頭がおかしい」

というような言葉である。一般的に、これらのキーワードは誉め言葉には使われず、否定的なキーワードとして用いられることが多い。分かりやすい例として自分が言われた叱責の文句として、上司から「普通はこんなことしないだろう。常識的に考えてあり得ない。」みたいなことを言われたことがないだろうか?はっきりと自分で覚えてはいないが、私も20年以上に及ぶ管理職生活の中で、ほぼ間違いなく、このような発言を自分の部下にしたことがあると思う(もちろん、言われたこともたくさんがるが)。

特に日本の社会、教育においては、「他人に迷惑をかけない」ことを美徳と考え、「赤信号みんなで渡れば怖くない」ではないが、物事の本質を考えて「正しい」「正しくない」を判断しているのではなく、「周りがこうしているから、私もこうしておいた方が安全」みたいな判断基準で物事を判断していることが多い。

コロナ禍のアクリルパーテーション問題

例えば、2020年頃からの新型コロナウィルスの蔓延時の対策などでも、そのような話は顕著であった。よく、同調圧力という言葉がテレビなどでも聞かれたが、例えば、よく飲食店やオフィスなどに設置されていた飛沫感染防止用のアクリルパネルは、日本国内においては2022年くらいまでかなり長く設置されていることが一般的であった。しかし、あれは結構早い段階で、特に狭いスペースにおいては飛沫感染防止効果よりも、空気の対流・換気の妨げになるため、むしろデメリットの方が大きいことは科学的に分かっていたそうである。しかし、多くの企業や飲食店が設置を継続していたと記憶している。おそらく、やめてしまうと感染対策に後ろ向きであると見られてしまう恐れがあると考えた人が多くおり、そのような社会的な雰囲気から、アクリルパーテーションはデメリットが大きいという話自体が世の中に流れてこなかったし、そのような情報もないため、多くの日本人は3年近くもアクリルパーテーションに囲まれて仕事をしたり、食事をしていたわけである。

この話を聞いて私が感じたのは、日本における「普通」であることの意味のない価値の高さの問題である。最近の問題として耳にして、一部の自治体では対策条例のようなものも制定されるようになってきているビジネスシーンにおけるカスタマーハラスメントとか、よく学校のはなしで耳にするモンスターピアレントの話はその代表例であろう。もちろんこのような問題はお店や学校などのサービスの提供側の何らかの落ち度に端を発している可能性は否定できない。しかし、これに対する過剰なリアクションがカスハラやモンシュターピアレントを生み出してしまう。その前提になっているのは、おそらくその顧客や両親の持つその人の「普通」と店舗や学校の対応に対する「ズレ」が大きいということが多いのではないだろうか?その「ズレ」が大きいほど、顧客側の怒りが大きくなり、問題化するのだと思う。しかし、おそらくそのお店や学校が、問題となっている顧客や両親以外とはそれなりに上手くコミュニケーションがとられており、スムーズに運営されている場合、おそらくクレームをしている人の「普通」の方が常識から大きく逸脱している可能性がかなり高いのだと思う。つまり、「普通」という概念は個人の主観的な事項である。

さらに問題なのは、前述の新型コロナウィルスの例を考えると「普通」と「論理的に正しい」ということが必ずしも一致しないことである。多くの場合、「普通=論理的に正しい」と考えがちであるが、「普通」というのは論理的に導き出された答えよりも社会的環境要因や、歴史とか物事の経緯のような話にかなり影響されてしまうのだと思う。新型コロナウィルスのアクリルパーテーションの場合の私なりの勝手な解釈は、こんな話なのではないかと想像する。アクリルパーテーションの設置の有無の議論は、論理的な正否とはいっても、ある条件下においてどちらが感染する可能性が高いかどうかの確率の高低の議論である。この確率の高低というのが厄介で、論理的には、どちらの選択肢をとっても、運が悪ければ感染してしまうことを意味する。このようなケースの場合、前述のカスハラの顧客やモンスターピアレントがいる社会において、サービスの提供者はどのような選択をすることが安全と感じるだろうか?私は、多くの場合、アクリルパーテーションを設置することであると思う。なぜなら、本当に正しい対策かどうかは別にして、外形的にアクリルパーテーションを設置していた方が、感染対策に配慮しているように見せられるからである。

同様な理由で、政府もアクリルパーテーションを撤去したほうがよいと言えなかったのではないか?なぜなら、新型コロナウィルスは思い返せば、空気の乾燥度合いであるとか、季節変動による部屋の換気度合いなどに左右されて放っておいても、感染者数に波があるものであった。しかし、当時の報道を見ると毎日新規感染者が公表され、その増減に皆が一喜一憂し、感染者が増えた時に政府に何らかの失策があれば多くのマスコミやSNSを通じて一般市民が政府を糾弾した。そうすると、政府としてはリスクが高すぎて、実はアクリルパーテーションはとったほうが良いですとは言えなかったのではないか。もし、その情報を開示したタイミングが悪く、撤去が進んだタイミングで感染者が増えてしまったりすると、パーテーションをとった判断が早すぎたので政府の失策だと多くの人に言われてしまったりするわけである。

私がSNSを個人的に見なかったり、好きでない理由は実はこの辺にある。一億総発信者の現代において、誰が決めたかよくわからない「普通」から外れることのリスクが著しく高くなってしまっているように感じるからである。特に、新型コロナウィルスの時に私が感じた日本社会の風土というか、雰囲気というのは、人に迷惑をかけないという価値観のせいなのか、この「普通」に対しての逸脱に厳しい世の中になってしまっているように感じる。

「普通」なことはAIができること

AIの話から始めて、日本社会の「普通」に対する議論と、議論が二転三転してしまったが、ここから本題の「普通じゃない」ことの重要性に話を戻したい。ここまで述べてきたように、日本社会において「普通じゃない」ことは一般的には「善」とはみなされにくいことは皆さんもご理解いただけたと思う。さらに、問題なのは「普通」=「正しい」わけでもないこともご理解いただけただろう。

一方、AIというのは、世の中に流通している情報を大量にとってきて、どう判断しているのかはちょっと分からないが、多く言われていることや、権威がある情報源の意見の総和から、正しいと思われる意見を答えとして我々に提供しているように見える。とすれば、今後AIがどんどん進化していけば、おそらく世の中の多くの人が「普通だ」「常識的だ」と考えることは、世の中の情報をかき集めればAIが答えを出せるようになってしまうのではないだろうか?そのように考えれば、人間の知的労働のうち、これまで正しいとされてきた「普通はこうやる」「常識的にはこう考えるべきだ」ということを正しく、効率的に実行するという業務は普通に考えればAIに置き換えられてしまう可能性が高いように思う。囲碁というのは、ルールが決められているという意味で「普通」=「正しい」=「勝ちにつながる選択」が一直線に連動する世界で、そのような世界においては、人間はAIの足元にも及ばない存在になってしまうことは残念ながら証明されてしまったわけだからである。

と考えれば、人間に残される仕事というのは、その逆を行くものでなければいけない。つまり、

「普通じゃない」=「正しいかどうかが分からない」

ことに人間がやるべきことは残されていくような気がしてならない。最近私が自分で考えているビジネスというのは、この「普通じゃない」をどこまで追及できるかというのをポイントに良し悪しを判断するようにしている。たとえば、デジタルマーケティングの世界でいえば、サービス提供者が推奨する方法通りにAIに運用を任せる世界だけになってしまったら、おそらく企業ごとの広告運用のパフォーマンスには差が生まれることはほとんどないか、機械学習データ量が大きい規模の大きな会社がより効率の良い運用ができるかのどちらかの世界にしか行きつかないと思う。そのように考えれば、2025年に新しく始めるビジネスは、間違いなく他社が普通にやることをやっているのでは上手くいかないし、すでに大手企業がやっていることを真似しても中長期的に勝てないことは確定的であるようにしか思えない。

では、どうすれば良いのか。キーワードは「普通じゃない」であるとしか思えない。多くの日本人は「普通じゃない」と怒られた経験が少なからずあるであろう。このため、「普通じゃないことをしろ」と言われると、リスクが高い選択をすることのように受け止められる気がする。しかし、ここまで考えてきたことが論理的に正しいとするのであれば、これからの仕事、とくにホワイトカラーの仕事において「普通である」ことの方が相当リスクが高いと考えざるを得ないということになるのではないだろうか?

私個人が恵まれていたのは、両親が私たち兄弟に「普通」であることを全く強要しなかったので、帰国子女である家内に、「よく日本でこんな人間が育ったね」と言われるくらい、普通でないことにあまり違和感を感じないで50年近く生きてこられたことである。ただし、そのおかげて、普通に重要だと考えられていることが出来ずに、学生時代も、社会人になっても怒られること、コンフリクトが起こることもなかったとは言えない。今更人間としてのコアな性格や価値観を変えることもできないので、自分を変える試みをするつもりもない。しかし、結果がどうなるのかは自分の人生のこの先など私自身が知る由もないが、意外と悪くないのかもしれないと思えたりするわけである。おそらく、これから10年くらいのAIの進化は、産業革命とかと同じくらい凄いインパクトのある社会的変化が巻き起こるような気がする。2000年前後にインターネットが普及し始めたときも、同じような議論があり、もちろんそれなりに大きな変化はあった気がする。ただ、その変化とは、意外とそれまでオフラインにあったものが、オンラインに置き換わって効率化されたという話が多く、そもそも人間のホワイトカラーがやっていた仕事がネットのツールに置き換わってしまったみたいなドラスティックな変化はそれほど起こらなかった。もしかしたら、一番影響を受けたのは、広告メディアの出向額のシェアがそれまで存在しなかったネットメディアに大きく置き換わったというように、私が生きてきたマーケティングの世界かもしれない。しかし、統計データを見ても、以前より減ったとはいえ、4マス媒体と呼ばれたメディアは今のところは何とか生き残っており、それなりのお金を稼いでいる。

しかし、これからの10年間くらいで起こるAIと人間の役割分担の変化のインパクトは、おそらくこの25年くらいのインターネット普及以来の変化とは比べ物にならないくらい大きなものになる気がする。

そんな恐ろしそうな未来に老いていく肉体を使わずに、机に座って仕事をするための一つの重要なキーワードは「普通じゃない」ということなのではないかと思う今日この頃である。

「やる人はやる」というシンプルな事実

上原ひろみさんの凄さ

先日、J-waveを車の中で聞いていたら、音楽プロデューサーでベーシストの亀田誠治さんの番組に、Jazzピアニストの上原ひろみさんが出演していた。番組の趣旨は、ホスト役の亀田さんがゲストの上原さんに人生の転機になった曲をいくつか選んでもらい、その曲を題材に話を広げていくというものであった。

亀田さんは東京事変のベーシストとか、椎名林檎、スピッツ、スガシカオなど日本人であればどこかで聞いたことがあるであろう有名ミュージシャンのプロデューサーなどをされている方であるが、私自身はそれほど詳しいわけではないので、ゲストの上原ひろみさん中心に話をしたいと思う。

Jazzピアニストである上原ひろみさんを初めて聞いたのは、2003年の「アナザーマインド」というデビューアルバムを発売直後に買ったときなので、もう20年以上も前になる。アメリカの有名なバークリー音楽大学の在学中に米国でデビューして、逆輸入の形で入ってきて、当時の日本のJazz界では結構な話題になったので、試しに聞いてみようという感じであった。

聞いてすぐに、これは凄いピアニストが出てきたなと衝撃を受けたのを今でもよく覚えている。まずピアノがびっくりするほど上手く、特にテンポの速い曲での疾走感、気持ち良さは、似たピアニストが思いつかないような個性を感じた。また、世代的に、Jazzだけでなく、ロックやポップスも確実に聞いて育ってきているのが、作る曲からも感じられ、新しい世代のミュージシャンという感じの個性も印象的であった。

今も昔も、Jazzの中心はアメリカで、アメリカで活躍している日本人のJazzミュージシャンもそれなりの数いるのであるが、その後の彼女の活躍は、日本人かどうかなど全く関係なく、世界中のJazzファンが世界トップクラスのピアニストとして見ており、20年間世界中をライブで回りながら活躍している。

私自身も、何度かLiveを聴きに行ったことがあるが、特にアメリカに住んでいる時にホームグラウンド的なホールとして通っていたSF JazzでのLiveが最も記憶に残っている体験である。彼女の音楽を聴いていて、何故これほど人気があるのだろうと考えるのであるが、私の評価はこんな感じである。

プロのピアニストなので、当然ピアノは上手い。ただ、彼女と同じレベルのテクニックを持つピアニストが他にいないかといえば、世界を見渡せば全くいないというわけではない気がする。では、何が優れているのかといえば、私は作曲と編曲の能力だとずっと思っている。どんなに素晴らしいピアニストであっても、多くの場合万能ではなく、得意な曲のタイプ、不得意な曲のタイプがあるのが普通である。どんなにテクニックに優れていたとしても、その自分の特徴をちゃんと理解して、聞き手に自分の良さを伝えられるようにならないと、世界トップクラスのミュージシャンとはおそらく呼ばれないであろう。特に、テクニックに優れたミュージシャンの多くは、テクニックがあることであらゆる曲をキチンと弾けてしまう。私はJazzという音楽は(音楽はみんなそうかもしれないが)、どれだけキチンと弾けたかで評価されるものではなく、そのうえで表現されるミュージシャンの個性みたいなものが見えてこないと面白いものにならないと考えている。そして、それなりの確率でテクニックに優れたミュージシャンというのは、誰よりも上手にピアノを弾くが、面白くないという感じになってしまう。子供の頃に「神童」とか言われて、若くしてデビューするミュージシャンが何年に1回とかの頻度で出てくるが、意外とその後大スターにならないのは、この辺に理由があるのではないかと思う。

そんな前提の上で、上原さんである。彼女について私が素晴らしいと思うのは、自分が好きだと思う音楽、自分のピアノで伝えたい音楽というのが、相当しっかり自己認識されていて、さらに、それを作曲、編曲としてきちんと形にする能力が並みはずれて高いのではないかと思う。アルバムやLiveはオリジナル曲中心なので、作曲も自分でしていることがほとんどで、あまりスタンダードな曲は演奏しない。このため、彼女の場合、最も重要な能力は作曲能力であると思う。そもそもバークリーに留学した時もピアノ科ではなく、作曲科に進学しており、おそらくピアノの能力についてはある程度自信を持っていて、それをフルに表現するための作曲の勉強をすると当時から考えていたのかなと勝手に推測してしまう。このような視点で、現代のJazz界を見てみても、ピアノの演奏能力と、セルフプロデュース的な作編曲能力をこれほど高次元に兼ね備えているピアニストというのは私の知る限り10人もいないのではないかと思う。

さらに、彼女の場合、その音楽を表現するために選ぶバンドのメンバーが素晴らしいのもLiveを聴きに行く楽しみである。上述のSF Jazzの時はベースがアンソニー・ジャクソン、ドラムがサイモン・フィリップスと各楽器を代表するようなテクニシャンで、自分のやりたい音楽を一緒に表現できる感性とテクニックを兼ね備えた人を見抜く能力も高いのであろうし、そのような人を長期間ツアーに雇えるということは、当然それだけのギャラも払えるということだと思うので、グローバルなJazzの世界において、それに見合う評価を得ている証拠である。日本人のミュージシャンがアルバム録音の時だけ有名ミュージシャンを雇う例はよくあるが、本当の世界のトップクラスのミュージシャンを長期間グローバルなツアーに固定メンバーで帯同できるミュージシャンは少なくてもJazzでは彼女以外思いつかない。

彼女のやっている音楽は、マニア的にも高次元であるが、あまりJazzに詳しくない方が聞いても楽しめる、素直に凄いと感じやすいものなので、この話を読んで興味を持った方がいらしたら、Jazzの入口として聞いてみてはいかがだろうか?(個人的なおすすめはこちら

穐吉敏子さんというもう一人のJazzのトップミュージシャン

ここまでで、上原ひろみさんのミュージシャンとしての素晴らしさについて、素人が長々と話してきたが、当然本題はそれではない。まずは、冒頭に話したJ-waveの番組に戻ろう。番組の趣旨は、ゲストのミュージシャンに人生において転機になった曲を選んでもらい、その曲についてのエピソードを話すというものである。というわけで、上原さんも転機になった曲を4-5曲紹介していたのだが、そのうちの1曲のエピソードに非常に感銘を受けたことが本日の本題である。

上原さんが選んだ曲は穐吉敏子さんのLong yellow Roadという曲である。上原さんがこの曲を選んだ理由を書く前に、そもそも穐吉敏子さんという方がどういう人なのかを書かなければその後の話が理解できないので、まずそこから説明したい。

穐吉さんは日本人のJazzミュージシャンである。1929年生まれなので、今年96歳で現役のJazzピアニストである。戦前の満州で生まれ、日本に引き上げ後に、米軍キャンプでJazzを弾き始めたという日本のJazzの草分け的なミュージシャンの一人である。彼女のJazzミュージシャンとしての実績は、おそらく今の上原さんの世界的な評価をおそらく唯一上回れると思われるもので(別にどちらが偉い、凄いみたいな話はどうでもよい)、1980年代から90年代の前半にかけて、おそらく全米で最も評価が高かった大編成のJazz Big Bandのリーダーとして活躍された。NYの有名なJazz Clubの月曜日の夜はMonday Nightと言われ、それぞれのハウスBig BandがLiveをするのだが、彼女のバンドはBirdlandというNYでもTop5に入るであろうJazz ClubのMonday Nightで活動をつづけた歴史に残るBig Bandであった。評価の一例として1980年代前半のDownbeatという米国で最も有名なJazzの雑誌の批評家、ユーザー投票による人気ランキングで5年連続No.1を獲得したという実績を誇っている。

このように、穐吉さんが残してきたJazz界における実績だけをみても、とんでもなく凄いのだが、それ以前に人間として凄いと思うのは、彼女のそこに至る過程である。

穐吉さんは1956年に26歳で上原さんも通ったボストンのバークリー音楽大学に留学する。留学の苦労など知らない私からすれば、上原さんでも十分チャレンジであったと思うが、以前知り合いから聞いた話では、今はバークリーには結構日本人留学生がいるらしい。一方で1956年の穐吉さんの場合、日本人初の同大学への留学生であり、本当にたった一人での挑戦であったそうだ。どんな世界にもパイオニアになる人にはきっとその人にしかわからないであろう苦労があると思うのだが、1956年に日本人の女性がそれ以前に日本人が一人も踏み入れたことがない世界に、たった一人で旅立ち、挑戦するというのは、ちょっと想像がつかないくらいチャレンジングなことであろうと思う。それ以降、穐吉さんは一貫してアメリカを拠点に活動し、Jazzのど真ん中でトップクラスの評価を得続けて来たわけである。

若者への強烈なアドバイス

意図せず、日本Jazz歴史講座みたいになってきたが、今度こそ本題である。

上原さんが穐吉さんの曲を選んだ理由の話である。上原さんがバークレーに留学する少し前に、何かの機会で穐吉敏子さんとご一緒になる機会があったそうだ。上原さんは高校生の時にチック・コリアというこちらもJazz好きであればほぼ100%の認知度があるであろうミュージシャンと共演するなど、すでにJazzの専門家の間では知られた存在であったので、そのような機会があったのであろう。

そんな場で、周りにいた大人の人が、気を使ってか、穐吉さんに何かアドバイスをしてあげもらえないかとお願いしたそうだ。そして、この時のアドバイスが強烈で今も上原さんの心に刻み込まれているため、転機になった1曲として穐吉さんの曲を選んだそうだ。そのアドバイスとは、

「やる人はやる」

という一言だけであったそうだ。世界的なJazzミュージシャンが十代の若者にかける言葉としては恐ろしく素っ気なく、厳しいものである。しかし、その時上原さんはこの「やる人はやる」という一言の背後には「やる人はやるし、やらない人はやらない。他人が中途半端なアドバイスなどする必要はない。」という感じの考えが潜んでいると感じたそうだ。そのような場の社交辞令でよいのであれば「若いあなたには無限の可能性がある。夢に向かってかんばってください」くらい言っておけば当たり障りはないであろう。はっきり言って、何のアドバイスにもなっていないし、発言としてはひどく無責任である。でも言われた本人は少なくてもうれしいであろう。しかし、「やる人はやる」の一言は、上原さんのように、真意を理解し、受け止めることができたから良いものの、まだ自分の考えを持てていないような若者であれば、ひどく傷つく言葉かもしれない。

しかし、つまらない社交辞令を言ってしまいそうな私のような小心者からすると、この本気の「やる人はやる」という言葉にはその強烈な重みに圧倒されてしまう。

すべての始まりは自分の決断から

私は50歳手前まで25年間会社員をしてきた。周りに起業して成功する人もたくさん見てきた。正直、様々な成功者を見ながら、どこかで自分のほうが有能であると思わないことがなかったかといえば嘘になる。しかし、自分でもそれは虚しい負け惜しみであることは重々承知していた。結局私には25年間自分でやる勇気がなく、安全な会社員生活で満足していたのである(周りからは変わった会社員生活に見えていたかもしれないが)。でも、成功をつかめるか、つかめないかは、どんなに勉強して、経験を積んで、スキルと能力を身に着けたとしても、最終的には「やるか、やらないか」の決断をしなければ始まらないのだ。

こういう言われればすぐに分かることというのは、意外と忘れられがちだが、本質的には最も重要なことである。穐吉さんの人生を振り返れば、まさにそれを体現してきたのだと想像する。そもそも、それまで日本人が誰一人行ったことがなかったバークリーに留学すること自体も「やる」と自分で決めなければ実現しない。自分以外ベースとドラムの2名を雇えば実現してしまうトリオのバンドではなく、10数人を継続的に雇わなければいけないBig Bandをやろうという発想も多くの人が躊躇する選択肢である。しかし、おそらく自分がやりたい音楽、実現したい目標や夢のようなものを結果として残すためには「やる」と決めるしかなかったのだと思う。きっと想像できないような様々な苦労があったと思うが、「やる」と決めたのが自分であれば、それは自分で何とかするしかないのであろう。

逆に言えば、人に「やれ」と言われてやっているうちは、新しいものなど生み出せないということなのではないかともこの話を聞くと思ってしまう。これは、音楽でも、ビジネスでもフィールドは関係ない。新しいものを生み出すとか、人がやっていないことにチャレンジして結果を出すためには、誰かに「やれ」と命令されてやっているのではダメなのだと思う。自分の中に「これを実現したい」「この問題を解決したい」「これをすることが心から楽しい」というような欲求・動機がまずあって、その実現に向けて必要なことを「やる」と自分で決める。この二つを自分で決めなければ何も始まらないし、始めた後でのハードルを乗り越えるための推進力も得られないのだ。穐吉さんは経験上、それを知っているからこそ、Jazzピアニストという最終的には自分で表現したいものを自分で作り出さなければいけないという厳しい道を目指す若者に、無責任で中途半端なアドバイスなどすべきでないと思ったのではないか。

日々の業務における「やらない人」の典型例

事例として、留学とか、ミュージシャンという職業の選択とか、起業というような大げさな話のほうが分かりやすいので、そのような例を使って話を進めてきたが、この「やる人はやるし、やらない人はやらない」という話は、日々のビジネスの日常の中でも常に起こっていることである。そして、「やる人」か「やらない人」かで日々の業務のクオリティが少しずつ変わり、その日々の蓄積が1カ月、1年、10年の大きな差となって現れる。

例えば、日々のABテストを例に考えてみよう。いま同じ市場で競争している2つの会社があったとする。両社は今年度新規顧客を1万人集めなければいけない、予算は100万円で同じだとする。

会社①のマーケティング担当者は月に1回PDCAを回して、年間目標まで今150円のCPAを年末までに50円まで下げて、年間平均のCPAを100円に収める計画とたて、その目標を計画通りに実行した。しかし、年末のCPAは90円となり改善はできたが年間の平均CPAは120円となり、20%改善が足りなかった。

一方、会社②の担当者は、会社①と同様の年初計画を立て、最初の3カ月間実行したが、3カ月間の改善ペースが年初の計画に達していなかったので、PDCAの改善スピードが遅いと判断して、月2回のPDCAに倍増することにした。さらに3カ月たった時にチェックしたら無事CPA100円まで落ちていたが、改善しやすいところから改善してしまい、残りの半年で同じペースでの改善は難しいかもしれないと考え、PDCAの回数を、月3回転にして残りの半年を過ごすことにした。結果として年末はCPA50円まで下がり、年間の平均CPAも100円として無事計画を達成できた。

この2つの事例は、「やらない人」と「やる人」の違いが出ている。私の経験上、会社①の担当者に目標が達成できなかった理由を説明させると、計画通りやるべきことはやったが競合環境も厳しく目標を100%達成できなかった。ただし、CPAは150円から30円20%改善できたので、悪くない成果だと思う。みたいな感じの話をしそうな感じがする。これに対して、会社②の担当者は、当初の計画が甘かったので、PDCAサイクルを早めた話を説明するであろう。会社①の担当者も計画通り業務はきっちりこなしたので「やらない人」に分類されないと思う方もいらっしゃるかもしれないが、ここでいう「やる人」と「やらない人」の違いは、最初に決めたことをやるか、やらないかではなく、当初建てた計画を実現するかどうかで決まる。私が多く見てきた成長速度が遅かったり、仕事で成果が出せなかったりする人は会社①の担当者のようなタイプの人が多い。今回の事例でいえば、よほど将来改善できる大きな改善点を見つけられていない限り、最初の3カ月で冷静に分析すれば、このままでは年間の目標が達成できないことは分かることである。しかし、その時仕事のスタンスも変えず、問題点のアラートも出していないとしたら、それは計画を実現するコミットメント力が足りないというべきである。もちろん、このシチュエーションで会社①の担当者の上司に当たる人間が何のアドバイスや改善の指摘をしていないとすれば、それはそれで全くの無能と言わざるを得ないが、たとえ上司の指示がなかったとしても、担当者は自主的に改善の取り組みをしなければいけない。つまり残念ながら、会社①の担当者は「やらない人」である。

「やる人」というのは結果だけでなく、プロセスで最大限努力する

では、会社②の担当者が努力の甲斐なく計画を達成できなかったとしたらどうであろう。私は「やる人」に分類しても良いと思う。もちろん計画を達成することに越したことはないが、重要なのは計画を実現するために考えうる最大限の対策をして実行するかどうかのほうが遥かに重要であると考える。このような姿勢を持っている人であれば、例え今回の目標を達成出来なかったとしても、継続的に任せた仕事を改善出来、自分で考えて経験を積み、長期的な成長軌道を維持してハイスペックな人材になれる可能性が高いからである。コミットした目標というのは最大限の努力をして実現するべきだが、はっきり言うと計画を達成できるかどうかというのは、コミットした個人や組織の能力と努力以外にも、計画自体の精度という問題もあるので、マネジメントレベルでは可能な限り高い精度の計画を作る責任があるが、最終的に実現できるかどうかは中長期的な事業成長のためにはそこまで大きな問題ではないというのが私の立場である。ちなみに、優秀な人材が、上司から見て最大限の努力をして計画から10%とか20%の乖離が出てしまったとしたら、外部環境の変化に明確な理由がない場合は、はっきり言って計画を作った人間と、その計画をコミットした部門の責任者の能力の問題であると考えたほうがよいと思う。ただし、こういう話をすると、計画が実現しない原因を懸命に外部環境に探そうとする人がいるが、こういう人は典型的な「やらない人」である。

「やる」か「やらないか」という話はこの例で見てきたように、日々の業務のなかで連続的に決まってくるものである。コミットした目標や、やりたいことを実現するために、今できる最善と思われる対策を実行するかどうかが重要であり、「このくらいでいいか」と思ったときに「やらない人」に近づいてしまうわけである。もちろん、人間常に気を張り詰めていてはストレスで病気になってしまうので、メリハリは重要である。しかし、日々の業務の中で、「外してもよいポイント」と「外したら、やらない人になってしまうポイント」は区別して管理すべきである。そして、後者のポイントについては、誰にも負けないくらいやった、考えたと言えるくらいの自信を自分で持てるレベルまでやり通すことが重要なのである。

最終的には自分がやり抜いたと思える「自信」が重要

そして、最後に重要なのがこの「自信」であると思う。結局当事者でない他人は本当にその担当者が限界まで考え抜いたかどうかなど実は分かりようはない。もちろん議論をすれば、スキルのある人であればどの程度考え抜いているかを推測することはできるし、マネジメントであればそれは必須の能力である。しかし、最終的にはそれは本人にしか分からない。このため、誰に文句を言われようが、自分でやり切ったと思える「自信」があるかどうかが重要なのである。ちなみに、私自身は、これまで自分が主体的に事業会社として関わってきた業界において、マーケティングの視点からその業界を自分より詳細に、体系的に考え抜いてきた人間は退職時点で日本にはいないと自己満足的には思っていた。誰よりもデータと真剣に向き合ってきたし、分からないことがあれば、人の意見を聞いたり、データをより深く分析したりして、継続的にその業界のユーザーの動きと企業の動きを考え抜いてきたからである。少なくても、その会社で自分と同じ視点で自分以上に考えているひとはいなかったと思うし、その業界で最もデータがある上位数社のポジションにいる企業で仕事をしてきたので、私以外にいたとしても一人か二人以上は日本に同レベルの人はいないと思っていた。

私がこのような話をすると、不遜で、傲慢な人間に感じられるかもしれないが(全くそういう面がないとは言えないが)、ここで議論しているのは「事実」ではなく「自信」の話なので、ご容赦いただければと思う。

今回は、上原ひろみさんという素晴らしいJazzピアニストのインタビューで聞いた話を切っ掛けに「やる」か「やらないか」という言葉だけ聞くと少し物騒な話をした。しかし、多くのビジネスパーソンや会社を見てきて、結局は「やる人」や「やる人」が多い会社というのは成長するし、反対にパフォーマンスが低い人や会社というのは、結局は小さな「やらない」ことの連続で、外形上はそれほど変わらない仕事をしていても、上手くいっている会社とは蓄積された一つ一つの業務の精度に差ができてしまっていることが多い。もちろん最初に話した人生の重大な決断における「やる」も重要だが、そういう機会はそう何度も訪れないので、今回の話を参考に小さな「やる」を積み上げていただければと思う。

基礎科学の思考法からみるイノベーションの起こし方

AI機械学習の源流の理論を構築した日本人

最近のマイブームのExtreme Scienceから、もう一つ興味深かった先生のお話しをご紹介したい。今回取り上げるのは、情報幾何学という新しい数学の分野を構築された甘利俊一先生である。正直、大学受験以降は、経済学で利用する微分・積分くらいしかやっていないし、それも30年前に卒業してしまったので、はっきり言って、数理論的な内容からは先生の凄さは全く理解できない。

ただ、2024年のノーベル物理学賞が「人工ニューラルネットワークによる機械学習を可能にする基礎的な発見と発明」で2名の学者に授与されたそうなのだが、この二人の業績の基となるアイディアは、甘利先生が20年以上も前に発表したアイディアがベースとなっているそうで、いわば現在のAI、機械学習という最もHotな事業分野の基礎的な理論の構築者の重要な一人であるという凄い先生だそうである。ちなみに、インタビューアー役の茂木健一郎氏は、敬意を表して番組で初めてネクタイを締めて登場し、「天才」という言葉を随所に連発されていた。

というわけで、先生の専門分野の話は全く説明できないので、ご興味がある方はご自身で調べていただきたいと思うが、1時間強のお話を聞いて、このような究極のクリエイティビティを持つ人の話というのは、門外漢の人間にとっても、参考になる話が満載であったので、今回も2点ほど皆さんにご紹介したい。

クリエイティブなアイディアを産む3つのステップ

一つ目に、興味深く、ビジネスにもつながると思ったのは、先生の仕事のスタイルというか、新しいアイディア、概念を生み出すための方法についての話である。先生ご自身がまとめたのではなく、私が話を聞いて勝手に整理すると以下のようになると思う。

  • 環境の整備
  • ゼロいちを生み出す
  • 詳細化・モデル化

環境の整備

まず、先生が重要だと仰っている1つ目のポイントは、仕事をする環境をどのように整えるのかということである。先生は、「自由闊達に、好きなことをやる」と表現されていたのだが、要するに何か新しいものを生み出すには当然相応のパワーが必要なのであるから、自分の時間なり、労力なりをそこに注ぎ込む価値があると自分で思える「好きなこと」をやるのがまず重要であるということである。別に、特に珍しい意見でもなんでもないが、やはり重要なことであると思う。

しかし、ここからが私が共感するところなのであるが、先生が強調されていたのが、「自由に好きなことをする環境を自分で作る」ことが重要であるということである。残念ながら人間は様々な意味で平等ではない。生まれ持った能力や、家庭環境や周囲の環境など、私たちの人生には自分のおかれる環境を定義する様々な所与の条件が存在するのは事実である。私個人は、自分が育った環境に大人になって改めて感謝をしているし、上を見ればきりがないが、どちらかといえば恵まれた環境でこれまで生きてこられたと感じている。

ただ、日々のニュースやSNSでの話題を見ていると、人間というのは現状の問題の原因を環境の要因とし、自分のコントロール外のものと定義して、自己の努力の範囲外のものとして客体化してしまうことが多いように思う。もちろん、すぐに変えられること、簡単には変えられないこと、一生変えられないことと問題は様々であるが、私が先生に共感し、重要だと思うのは、自分が望む環境は与えられるものではなく、自分で作る努力をする対象であると考えていることである。以前、人材育成のパートで、「楽しく働く」ことの重要性と、その環境を作るために私がこの25年間にやってきたことを書いたが、そのようなスタンスが重要であるということを先生は仰っているのだと思う。

日本もだんだんそのようになってきそうな感じがしているが、アメリカやヨーロッパの政治の2極化などを見ていると、極端な貧富の格差の拡大による環境の固定化、分かりやすく言えば富める者はますます富み、貧しいものはますます貧しくなる状況にはやはり問題があるのだろうし、個人の努力だけではどうしようもないことはあるのは事実であろう。でも、どんな状況におかれても、自分がおかれている環境というのは、自分で作るものだという意識は常に持っていることが大事なのではないかと改めて思う。

なお、この環境整備については、マネジメント側の視点では、どのように組織において個々のメンバーが好きなことを自由にできる環境を整備できるようにするのかに配慮することが重要であると思う。この点について、甘利先生と理化学研究所で一緒に仕事をした経験のある茂木氏の話が参考になる。先生は、チームメンバーの自由と個性を尊重するスタイルのチームマネジメントを重視されていたということである。もちろん企業という組織は収益をあげるため、また効率よく運用するためにルールと管理が必要なことは間違いない。ただ、管理と効率ではおそらく新しいアイディアは産まれてこない。そこには、各メンバーが自分で好きなことを考え、実践する環境がなければならない。要は、自由と個性という「遊び(余地)」が必要だということだ。企業によっては、〇%ルールみたいな形で、業務時間の一定割合を自己の好きなテーマの業務に使うことができるみたいなことをしている企業もあるが、そのような「遊び」をどのように企業に組み込んでいくのかというのは、大変難しいテーマである。「効率」と「遊び」のバランスをどのようにとるのかについて、是非考えていただければと思う。

ゼロいちを生み出す

環境を整えたら、次はいよいよ具体的なアイディアを考えるステージである。甘利先生は、この点について何段階のステップに分けて説明されている。

第一段階は、「大風呂敷を広げる」ところから始めるということである。先生の場合は、情報理論と幾何学を組み合わせると、情報の体系が構造化でき、脳科学、AIをはじめ様々な分野に応用できる理論体系が出来上がるのではないかといった壮大なアイディアをまず考えるところがスタート地点であったそうだ(素人理解なので、間違っているかもしれません)。このような考え方は実はGoogleなどでもよく言われることで、Googleが考える「イノベーションの9つの柱」というのがあるのだが、そのうちの一つに「10X」というものがある。分かりやすくいうと、10%改善するアイディアを考えてもイノベーションは産まれないが、今の事業を10倍にするようなアイディアを考えようとするとイノベーションは産まれやすいということだ。先生のいう大風呂敷というのは、まさに同じ考え方であると思う。

第二段階は、「構想を練る」である。大風呂敷に見合うアイディアを考えるためには、当然いきなりディテールに入ってしまっては上手くいきにくい。問題の難易度や、考える人間の能力に応じて思考の期間は異なると思われるが、この構想が纏まるまでには時間がかかる。大風呂敷を広げているので、その解決策が瞬時に思いつくようであれば、それは天才的に頭が良いか、運が良いか、誰にも注目されず手つかずのまま眠っていた簡単な問題かなど、かなり特殊な状況であろう。

という前提で、構想が纏まるまでには、時間がかかるわけであるが、先生がこの段階で重要だというのは、アイディアの「発酵」だそうである。分かりやすく言うと、一日のある程度の時間(1日中かもしれないが)、「こうやったらうまくいくのでは?」「こんなアイディアはどうだろう?」など様々な思考トライアルをする。でも上手くいかない。そんな時は、一旦問題を忘れて寝てしまう。要は、時間を置くのだという。そして翌日も同じように考えて、上手くいかない。一旦忘れて寝てしまう。この時間を置く期間が重要で、この仮定を先生は「発酵」と表現されているのである。この話はとても面白いと思う。誰でも経験があると思うが、何かに悩むとその解決法や原因の分析など様々なことが頭から離れにくくなる。でも、大抵の場合その思考というのは広がりが少なく、細かい場所で堂々巡りになっているケースが少なくない。そして、この堂々巡りになってしまうと、時間ばかりが過ぎていき、たいして良い解決策が出てくるわけではない。おそらく先生は、このような状況をずっと続けていても良いアイディアは思い浮かばないと経験的にご存じなのだと思う。そのため、一旦忘れて、寝てしまうと仰っているのだと思う。おそらく寝てしまうというのは比喩的な表現で、おそらく他のことをしたり、誰かと話したりという別の刺激を脳に与えているのだろうと思う。そしてまた翌日に考え直すと、脳には昨日とは違う刺激とか、情報が入ってきているので、もしかしたら違う角度から問題を考えられたりするかもしれない。みたいな話なのだと思う。とても興味深いやり方な気がする。

そしてこの「発酵」を繰り返すことによって、ある時「こうやったら上手くいくかもしれない」というアイディアが思い浮かび、それを手掛かりに構想全体を組み上げていく。先生は、研究者という仕事をしていて、この瞬間が最上の喜びであると仰っている。そして、このような新しい概念とか理論の構築という人間の最も楽しい行為を放棄してしまったら、仕事とか人生とかの楽しみが減ってしまうのではないかと仰っている。

AIの先駆者が話しているので猶更に含蓄があるが、いくら便利だからだといって、なんでもAIに質問して答えを教えてもらうということを繰り返していたら、人間は馬鹿になってしまうのではないかと仰っている。もしかしたら将来AIが新しい理論を創造できるようになる時が来るかもしれない。しかし、そのような思考は今のAIにはできない。つまり、理論創造とは、人間に残された、人間にしかできないことで、それをやめてしまったら、人間にどんな価値があるのかと仰りたいのではないだろうか。

詳細化・モデル化する

思考の「発酵」過程を経て、新しい構想が纏まったら、最後は仕上げの段階で詳細化・モデル化する工程である。この段階は、構想を他の人にも分かるように形として表現する、つまり視える化するという作業になる。先生のような数理学者の場合は、具体的に計算をして、構想を数式として組み上げて、それが正しかを確認するというのがおそらく最初のプロセスで、最終的には論文という形で纏めるということになるであろう。

当然、この作業は重要で、構想とかアイディアというのは、残念ながら思いついているだけでは全く無意味で、この詳細化、モデル化ができないとほぼ価値がない。よくビジネスで自分でも話していて無意味だと思う発言に、新しいスタートアップのサービスをみて、「このアイディアは自分も考えていた」というものがある。要は成功するビジネスアイディアを自分も思いついていたという自慢話のようなことであるが、この手の自慢話ははっきり言って価値が全くない。アイディアというのは、思いついただけでは、その人の成果として全く評価されない。人間の社会的な評価・価値というのは、残念ながら脳内で考えたかどうかで決まるのではなく、そのアウトプットによってなされるからである。

このBlogで使ってきた言葉でいえばExecutionということになり、これが面白いかどうかというのは人それぞれであると思うが、私個人でいえば、ビジネスにおいてはこのプロセスが最も面白いと考えている。

先生のようなノーベル賞級のインパクトのあるイノベーションを万人ができるとはなかなか言えないが、甘利先生が新しい理論を構築する時の3つのステップは、私たちの日々の仕事の中で参考にできることが多くあるのではないかと思った次第である。

成功のポイントとなるシンプルなロジックを理解する

2つ目の興味深かった話は、物事の本質をとらえることの重要性という話である。この話は、人間の脳を理解する難しさについて話していた時に仰っていた内容になる。先生曰く、人間の脳というのは、進化の過程において、一直線に効率的に進化してきたものではないそうだ。その過程をランダムサーチと表現されていたが、人類の歴史において様々な進化の方向性のトライ&エラーのようなものがあり、ある方向の強化をしてみたがそれは効率が良くなく、一旦立ち戻って別の方向に強化がなされて、それがよければ遺伝的にマジョリティとなっていくみたいなことの繰り返しで今の我々の脳は作られてきたということである。そしてもう一つの特徴は、その過去のトライ&エラーの一つ一つが捨てられておらず、脳の機能として残っているということである。その結果として、脳を生理科学的に分析すると、A→BのようなInputとOutputの関係性を思考するのに、シンプルで効率的にシステムが動かずに、複雑な動きをすることがあるらしい。これが人間の脳を科学的に理解することの難しさであるということであった。人間の凄さというのは、このように進化した脳を持っていることであるし、その存在自体は素晴らしいものだという。しかし、人間の脳が行う情報処理というのは、情報処理の原理から言えば効率的なものではなく、それは別の学問として理論化されるべきであり、その一つが情報幾何学であると仰っている。

この話は私が推奨しているPDCAの高速回転というデジタルマーケティングのマネジメント手法に対する重大な注意喚起になっていると思う。PDCAという行為は、甘利先生の話に出てくる脳の進化のプロセスと非常に似ている。論理的に行えればエラーの数が減らせる可能性があるが、PDCAの本質は小さな失敗を早く意図をもってであるので、失敗自体は許容することが重要である。また、この話は失敗に限定されるわけでもなく、成功についても、以前の成功法則Aよりもより改善インパクトが大きい成功法則Bが発見された時には、AはBに上書きされて過去のものになることもある。

このようにPDCAというのはどんどんアップデートされていくわけであるが、長年にわたってPDCAの繰り返しの中で出来上がった一連のプロセスが部分最適の積み上げになり、全体最適の観点からは複雑になり過ぎて最適化されていないというようなケースが存在する。さすがにビジネスの世界では一つ一つのサービス・システムに脳の情報処理における情報幾何学のような原理、理論を構築することは難しい。しかし、この問題意識にたいして、それぞれのサービス、システムの本質的な成功法則、最重要なコアKPIのようなものが何で、それはどのような仕組みで動いているのかを理解しておくことは重要であるとこの話を聞いて思うわけである。

ビジネスの世界でも「俯瞰的に見る」みたいなワードが出てくることがあるが、私はこのような視点は重要であると思う。そもそも自社のサービスが顧客に選ばれている本質的な理由は何か?競合と比較して、何が優れていて、何が劣後しているのか。そして、将来どのような方向にサービス全体を改善・進化させていくのか?このような視点を特に上位マネジメント層の人材は持ちながら、自社のPDCAの成果を定期的に確認することが必要であると思った。

以前、理論物理学のコラムでご紹介したカリフォルニア大学バークレー校の野村先生が仰っていたことに、天動説と地動説の話で、良い理論というのはシンプルなロジックで多くのことが説明できるものだという話をされていた。天動説で日々の星の動きを説明しようとすると一定の法則性は存在するため説明は可能である。しかし、その法則は非常に複雑なものである。しかし、地動説の視点で地球が動いているという前提に経てば、夜空の星の動きはほぼ一つのロジックで説明できてしまう。大抵このようなシンプルな理論のほうが正しいと仰っていた。

これはビジネスにおいても当てはまることの多い指摘だと思う。それぞれの会社が提供している商品・サービスが売上を上げ、利益をあげられている背景には、本質的でシンプルなロジックが多くの場合存在しているし、そのようなものがない事業というのは大抵の場合コモディティ化し、価格競争に巻き込まれ、利益を維持できなくなる。物事を複雑にとらえず、シンプルに理解できる本質をビジネスの世界でも大事にしなければいけないということを、脳の情報処理と情報幾何学の話を聞いて考えたわけである。

純度の高い理論科学の思考法をビジネスに活かす

今回は、情報幾何学という、Youtube動画を見る前は名前も知らなかった学術分野の大先生のインタビューからの気づきをネタに2点程考えてみた。以前はよく野球の動画をネタ元にしていたのだけれど、最近はScienceに急速に傾斜している。

ただ、この2つには実は共通点があると思っている。基礎科学研究も野球のようなスポーツも、非常に範囲を制限した、純度の高い世界で、究極のPDCAを回しているということだ。そして、勝敗とか、正否がはっきりと出たりするので、戦略やロジックも検証がしやすく、突き詰めやすい。このような、純度の高い世界には、戦略的な思考が純度が高く実践されているので、ビジネスの世界で曖昧にされているようなこ明確に表れやすい。甘利先生のじっくり考えることと「発酵」させることの繰り返しではないが、ビジネスのことだけ考えずに、外の世界からの刺激を入れてみることも重要だと強く思う非常にためになる動画であった。

AIに置き換わらない仕事とは?

PivotのExtreme Scienceが面白い

相変わらず本を読むことはほとんどせずに生活するという非常に怠惰かつ学習意欲が低い人間であるので、Youtubeのつまみ食いのような話でお恥ずかしい限りであるが、最近気に入っているYoutubeのコンテンツがPivotのExtreme Scienceというコンテンツである。ビジネスとかマーケティングのように、何処まで行っても理論的な正解のようなものにたどり着かないような仕事をしていると、たまに純粋科学的な、数理的に正解が証明できてしまうような世界や、自分の知識と頭脳では到底理解不能で、どういう頭の構造をしていたら、こんなことが創造・想像出来たり、理解することが出来たりするのだろうという極限の頭脳のアウトプットに触れて、刺激を受けたりする良い機会になっている。

このコンテンツは基本的に、司会者の方と、脳科学者としてメディアに比較的露出されている茂木健一郎さんがナビゲーターとなり、毎回各研究分野のトップクラスの研究者をゲストでよんで、その研究分野の最先端の研究状況を素人にも比較的わかりやすく紹介してくれるというものである。

 今回は、最近みた動画のうち、個人的に非常に面白いと思った方のインタビューにを題材にして考えたことを書いてみたい。

ぶっ飛んでいる最先端の理論物理学の世界

その人物は、理論物理学者の野村泰紀先生である。素粒子物理学であるとか、量子重量理論、宇宙論などのような、私のような文系の素人には名前を聞いても違いも判らないような意味不明な学問領域の専門家である。この最先端の理論物理学の世界というのは、おそらく天才的な頭脳の持ち主が、この宇宙の成り立ちを物理学的なアプローチで解析するという分かりやすく言うと「ぶっ飛んだ」話を数式で計算しながら議論している研究領域である。この20年くらいでそれまでの理論的常識を覆すような新しい発見が次々に行われ、ちょっと話を聞いても、「本当にそんなことあり得るのか?」というような話が連発している知的好奇心的には、とても興味深い分野である。

一般人にも分かりやすい代表例が、マルチバース宇宙論というものであり、先生の説明によると我々が生きているこの宇宙というのは、物理学的なロジックが奇跡的な均衡により成り立っている世界であることが物理学的には分かっており、その物理学的な変数のようなものが少しずれただけでも我々が住んでいる宇宙が今の形のまま存在することはできないことが分かってきている。と考えると、我々が住む宇宙が、唯一無二の宇宙であると考えるのは不自然で、宇宙というのは同時並行的に無数に近い量で複数存在し、我々はその中のたまたま我々が生きている物理法則が成り立つ一つの宇宙に住んでいるに過ぎないと解釈したほうが自然であるという考え方だそうだ。

この話を聞いただけでも、茂木先生が「ぶっ飛んでいる」といい、私もそれに完全に合意してしまうというのに多くの方が共感していただけるような気がする。

新しいアイディアを産むために必要なのは最高の頭脳

もちろん、このマルチバース宇宙論のようなぶっ飛んだ話自体にもとても興味があるので、そのうち先生の著書を読んで見ようと今時点では思っているのであるが(本当に読むかどうかは怪しいが。。。)、この話をこれ以上突き詰めて書こうと思っても、全く私の知識レベルが追いついていないので、今回取り上げたいのは、このような我々の日常生活のなかでは到底実感できないようなとんでもないアイディアがどのようにして産まれてくるのかという田中先生の職場であるカリフォルニア大学バークレー校の職場の話について書いてみたいと思う。

マルチ-バースのような突拍子もないアイディアがどのようにして産まれてくるのであろうか?そもそも理論物理学の最先端の学者の人たちの仕事というのは、ハイスペックなスーパーコンピューターで行わなければできないような膨大な計算をするというよりも、様々な思考実験のようなものをしながら、アイディアを考え、それを計算式のモデルに落とし込んでいくというプロセスが一般的であるということだ。最終的にできた数式モデルに様々なデータを流し込んで検証する際などにコンピューターを使うこともあるそうであるか、それ自体はあくまで検証のプロセスであるため、元になるアイディアを創造するというプロセス自体は分かりやすく言えば人の脳みそと紙と鉛筆があればできてしまうそうである。つまり、最先端の理論物理の研究施設をつくるために莫大な設備投資的なものをしなければならないかと言われれば答えはNoということである。

では、最先端の理論物理学の研究をするためには何が必要なのであろうか?田中先生は、優秀な人材が一か所に集まっていること、つまり、先生はご自分では仰らなかったが、分かりやすく言えば世界最先端の業績を実現しようと思えば、世界最高の頭脳集団が集められるかどうかでその成果は決まってくるということだ。事実、野村先生が率いている研究所には10名程度の教授陣がいるそうなのだが、そのメンバーにアメリカ生まれでアメリカで教育を受けた人は一人いるかいないかくらいのレベルで、アメリカの大学とはいっても、まさに世界中から最高の知能を集めているという環境であるのだろう。

 少し話はずれるが、以前にシリコンバーレーの強さがどこから来るのかという話をしたが、まさにこういう話を聞くと、最先端の研究分野において日本がアメリカに勝てる可能性は著しく低いなと思ってしまうし、その根源的な差はどこから生まれてくるのかといえば、日本のトップレベルの大学の予算規模の小ささと英語ではなく日本語で教育をしているという閉鎖的な環境が原因であると改めて思う。

ディスカッションと計算を繰り返す

話をアイディアの創造に戻そう。

では、そのような世界最高レベルの頭脳を集めたとして、その人たちは日々どのように仕事をしているのかというのが次の疑問である。なんとなく大学の先生のオフィスというと、暗い廊下に面した部屋で、そこに実験道具やら、書物がいっぱいあるみたいな部屋を想像する(ちょっと古いが、福山雅治が主演していたガリレオの研究室みたいな)が、バークレーのオフィスは全く異なるものだそうだ。

バークレーの理論物理学チームのオフィスというのは、仕切りのない広い空間にデスクが並び、壁は一面ホワイトボードになっているらしい。そして、研究者たちは、日中のオフィスにいる間は大抵そのホワイトボードの一角に数人で集まり、自分たちのアイディアについてディスカッションをしているということだ。理論物理学者というとそれこそ福山雅治のガリレオ先生のように寡黙で内省的な人が多いのだろうと勝手にイメージしていたが、実際にはかなりよく喋る人が多いそうだ。「昨日こんなアイディアが思い浮かんだ」「このアイディアは上手く行きそうなんだけどなぜか計算が合わない。何が問題なんだろう」「昨日こんな面白い話を聞いたんだけどどう思うか?」みたいな話がそこら中で起こり、議論が交わされているそうだ。

これまた日本のステレオタイプな大学の研究室のイメージは、安っぽいソファーがあって、研究生が徹夜で研究をして仮眠をしているみたいなイメージだが、それも全く異なるそうで、17時とかになるとみんなサクっと家に帰ってしまうので、いわゆる定時以降はほどんど人はオフィスにいないということである。

こういう話をすると、またステレオタイプな日本人のイメージでは、「やっぱりアメリカ人は長時間労働はしないのね」とか、「長時間労働している日本人は生産性が悪い」という話になりそうだが、先生はそれも違うと仰っていた。なぜなら、基本的にそれぞれの研究者にとってオフィスは周りの研究者とディスカッションをするための場で、そのためにオフィスに来ている。しかし、もちろん理論物理学というのは計算してモデルを作らないといけないので、話しているだけでは何時まで経ってもアイディアが新しい理論として形にならない。つまり、それぞれの研究者は、オフィスでのディスカッションの成果を毎日自宅に持ち帰り、帰宅後に自宅でその日のディスカッションの内容から浮かんできたアイディアを実際に計算して形にしているのだそうだ。その証拠に、大体翌日オフィスに来てみると、多くの人が「昨日話したアイディアを昨晩計算してみたんだけどここがうまくいかなかった」みたいな話になって、また、それについての議論が始まるそうである。その環境で、田中先生はアメリカ人の労働時間が短いとか、ハードワーカーではないなどという話は全く当てはまらないと仰っていた。

共同と一人作業の正しい使い分けとは?

この話のポイントはなんであろうか?

・新しいアイディアというのは一人で考えているだけでは産まれにくい。人間同士のディスカッションの中から産まれやすい。

・人間同士の共同作業の効率は一か所に集まる人間のレベルが高いほど新しいものが産まれる確率が上がる。

・オフィスという場は、ディスカッションのように複数人で行うべき業務を行う場所である。一人でやるほうがよい作業を複数人がいる場で行っても効率が悪い。

ということではないであろうか?

この3つのポイントに私個人は強く同意するが、今の日本のビジネスの環境を見ると、どんどんこれと反対の方向に進んでしまっているような気がしてならない。

一つ目の話は、コロナ禍で多くのビジネスパーソンが覚えてしまったリモートワーク問題である。私があまり好きではないワークライフバランス議論とあいまって、コロナ禍以降、人材採用時にフルリモートでないと人が集まらないみたいな話を聞くようになった。もちろん何らかの事象で地方エリアに居住せざるを得ず、そのエリアで自分のスキルを活かせる仕事がないというような事情がある方は別であるが、単純に家のほうが楽だからよいという発想でリモートワークをしたいという人が、それなりの割合で発生してしまっているように思う。しかし、このバークレーの話を聞いていると、何か新しいアイディアを生み出すためには、オンライン会議よりも、場を共有して、インタラクティブ性を極限まで高めたディスカッションの方が効率が良いということなのではないだろうか(もしかしたら、バークレーは野中先生が学んだ場所で、その後も長く関係を持っていた大学なので、ナレッジマネジメントの理論が理論物理学の職場デザインにも影響を与えているのかもしれない)。有名なアインシュタインが特殊相対性理論の論文を書いたときには研究機関の学者ではなく特許庁の職員で一人で研究せざるを得ない環境であったため、20世紀最大レベルの理論物理学の成果の初期の3つの論文はほぼ一人で作ってしまったそうである。つまり、必ずしも一人で新しいアイディアが作れないわけではない。しかし、アインシュタインはおそらく究極の例外のような人物で、新しい何かを生み出すためには、おそらく一人で黙々と考えているよりも、ディスカッションにより、インプットとアウトプットの高回転が繰り返される場のほうが、脳に刺激も多いので効率が良いのではないかと思っている。

それを、通勤時間がもったいないであるとか、家で仕事をしている方が融通が利く、もっとひどい場合にはサボってもバレにくいので楽(実はこの理由が正直多いと思う)、などの理由でリモートワークが多いほどよいと言っているひとは、自分が仕事の中で新しい何かを創造するという気持ちが正直足りないのだと思ってしまう。

では、サボれるみたいな低次元の話をしている人は別にして、なぜリモートワークの方が効率がよいという人が多いのであろうか?それは、一つ飛ばして3つ目のポイントとかかわってくるのだと思う。計算のように一人で集中して行うタスクについては、複数人がいる場よりも自宅の書斎(を持っている人がどれだけいるか分からないが)のような一人になれる場所の方が生産性が高いのだと思う。

つまり、本当にリモートワークのほうが業務生産性が高い人というのは、単純に一人作業が業務に占める割合が高いのではないだろうか?

AIに置き換えられない業務とは何か?

ただ、ここでまた別の問題が発生する。AIが人間の想像を超える速度で発達していく中で、一人で黙々と行う多くの業務というのはおそらくAIに置き換わりやすい業務の可能性が高い。つまり、人間が行うべき業務というのは、おそらく新しいアイディアや知識を産むようなクリエイティブな作業に集約されていくはずである。そしてそのようなスキル・能力を持たない人材は、AIにできない作業で、人間にしかできない何らかの作業(それが何かは分からないが)に、おそらく低い賃金で働かざるを得なくなるのだと思う。つまり、仕事の大半の時間を自宅のデスクでやった方が効率が良いという仕事を現在している人というのは、長期的にみるとリスクが高い可能性があるのではないかということだ。

では、そうならないためにどうすれば良いのかといえば、飛ばした2番目の話になる。つまり、自分を優秀な人が集まる高密度な集団の中におけるかどうかという話になるのではないだろうか?少数精鋭で新しいアイディアを生み出し続ける集団にこそ、自分が新しいアイディアを生み出せる機会を増やす場であり、それこそがAIに置き換えられない成果を出し続けるための法則なのであろうと思う。

2024年に50歳になった私などあと20年くらい仕事ができればと思っているが、この2年くらいのLLM系のAIの進化を見ると、5年後10年後でもどれだけ人間の仕事が残っているか怪しくなってきたのでちょっと心配になりつつある。

一方、今新卒で社会人になった20代前半の世代などははるかに進化した40年後のAIと仕事を取り合わなければいけない。AIが出せない付加価値を生み出さなければいけないのであるから、相当にエッジのきいた経験とスキルを若いうちに身につけなければいけないのではないかと思う。それなのに、リモートの方が楽で、効率が良いという理由で、仕事を本当に選んでしまって良いのであろうか?

今回は、理論物理学という超ぶっ飛んだ世界の頭脳たちが、どのようにして新しいアイディアを理論として作り上げていくのかという話の一端を参考に、私たちがビジネスをする環境について考えてみた。ビジネスとは一番遠い位置に居そうなアカデミックな世界からの刺激も、なんか新しいビジネスの形のような気がして楽しい今日この頃である。

リーダーが設定する限界値の重要性

三木谷さんが良く言っていた「徹底力」の重要性

自分のビジネスのポリシーというか、取り組み方というのか、正しい表現は分からないが、少なくても、仕事をするうえで大切にしていること、信じていることを考えていると、最初に働いた会社のカルチャーというか、教えのようなものがいかにDNA的に自分の中に組み込まれているかということを、歳をとってくると実感する。私の場合は、それが楽天という幸運にもその後大きく成長するスタートアップで、その経営者である三木谷さんという人の比較的近くで仕事をさせてもらった経験なので、特にその影響を強く感じるのかもしれない。

最近、いろいろな方とお話しする機会が増えてきたが、楽天・三木谷さんの教えで、私がいま改めて大切だと思っている仕事をする上でのスタンスを表現する言葉に「徹底力」という言葉がある。ハッキリ言うと、私自身はいい加減な性格で、飽きっぽい部分もあって、特に楽天にいた30代半ばくらいまでは楽天内の水準では、徹底力っぽさが寧ろなくて、会社内で浮いている存在であったのではと自覚しているが、一歩楽天の外の世界を見てみると、改めて三木谷さんが言っていた事の重要性を認識するのである。

PDCAの精度が視える化できないという問題

このブログで一貫して話していることにデジタルマーケティングにおけるPDCAの高速回転とその精度アップがある。AI化が進む中で、そんな地味なことを人間がやる必要があるのかという人がいるかもしれないが、私は絶対に間違いのない真理だと考えている。ただ、この高速回転と精度アップという2つのキーポイントの難しい所は、言葉でいえば総論賛成で、反論の余地もない話なのであるが、ではそれを実践しましょうという段階においては、どの程度やれば良いのかが視える化されにくいため、自分の立ち位置を認識しにくいという事がある。現在コンサルタントの仕事をしている立場で、クライアント企業に対して、「御社は、マーケティングの〇〇に改善余地が大きいと思われます。このため、施策Aについて、詳細にデータを分析し、その結果に基づいて継続的にPDCAを回し、精度をあげることで、マーケティング効率が△%改善することが見込めます。」みたいな提案をしたとする。そして、私がその部署のマネジメント責任者であれば、そこまで持っていける自信があったとする。しかし、数か月後に「あの施策、言われた通りにやってみたのですが、仰る通りには改善しませんでした。社内で施策Bを優先的にやってほしいと要望があったので、当面そちらにリソースを割くことにします」みたいなことを言われて、改善が実現しないことが少なからずあったりする。もちろんそれは、私のコンサルタントとしてのスキル不足、未熟さが最も大きな原因であるわけだが、事業会社でマーケティング責任者をしている立場と、外部から第3者的な立ち位置で業務改革・改善をおこなう立場での仕事の仕方の違いに戸惑いを覚えることも少なくない。

この事例で私の提案が結果に結びつかない原因は、提案の中の「継続的にPDCAを回し、精度をあげることで」の部分の精度のレベル感の問題であることが大半である。例えば、自動車のミッションであれば、1速から6速までというように、ギアが6種類あって、それぞれでタイヤの回転速度をロジカルにコントロールすることが可能である。それは2つの歯車の歯の数による単純な割り算の問題だからである。一方で、PDCAの精度というのは、残念ながら視える化することが難しい。PDCAの精度を決めるのは、P、D、C、Aそれぞれの企画・実行精度の積み重ねであるため、総体として5段階の5まで精度を上げてくださいということが非常に難しいのである。

PDCAの限界値を正しくマネジメントするための3つのポイント

では、この曖昧な「どのくらいまで精度をあげられるのか?」をどのように認識し、チームに伝えれば良いのであろうか?この実現のポイントは主に3点である。

  • チームのリーダーが精度向上の到達可能点を見極められる
  • PDCAサイクルの回転状況を観察し、到達可能点に達しているか否かの見極めが出来る
  • PDCA精度の到達可能点と現状のGAPを認識し、その差分を改善する期間を正しい目標設定としてチームに提示する

この3点を正しく実行出来れば、チームのPDCAサイクルの精度は正しい水準まで改善出来る可能性が高くなる。ひとつずつ細かく見ていくことにしよう。

チームのリーダーが精度向上の到達可能点を見極められる

陸上の100メートル走でも、野球のピッチャーでもそうであるが、人間というのは、見たことのない世界、経験したことのない世界というのは現実的に到達可能な設定目標として考え、それに向かって努力することは困難である。例えば陸上の100メートル走で誰も10秒を切ったことがない状態で、9.5秒の記録を目指して練習することはしないであろう。まず、9.9秒を目標にするはずである。プロ野球のピッチャーも誰も170キロの急速を実現していない段階で、180キロを目指して練習をすることはないであろう。しかし、一方で、ひとりが10秒を切るタイムを100メートル走で記録すると、9.9秒台の記録は人間に実現可能な領域であることが分かり、一気に複数人が9秒台の記録を実現したりする。

このような状況は、何もスポーツに限った話ではない。私は人間というのは、自分や自分の周りで実現できたこと、経験できたことの最高値をその行為の限界点であると認識して、リミッターをかけてしまいやすい傾向があると思う。最初に例に出したスポーツの記録というのは、明確に数値化して提示されるので、広く一般にその限界値が提示されやすい。しかし、ビジネスというのは、例えば車の馬力などのように製品スペックや営業部門の一人当たりの売上額のように数値化が出来るものもあるが、ここで議論しているようなPDCAの精度のような数値化が困難な行為については、客観的なレベル感を提示することが難しい。ただ、上述のように、自分が経験したことについては客観的な表現は出来なくても、感覚的にもっと改善できるのか、現状がすでに改善の限界値に近いのか判断は比較的正確に出来るものだと思う。

チームのリーダーの経験の最高到達地点がチームの目標設定になる

では、あるマーケティングチームが目指すことが可能なPDCAのオペレーション精度の向上の限界値とは何で決まるのであろうか?私は、そのチームの構成員の誰か1名がそれまでに経験した最高地点がそのチームが到達可能な限界点になると思う。そして、そのチーム構成員の経験の最高地点というのは原則としてそのチームのリーダーのものであることが望ましい。

その理由は、リーダーの設定限界点というのは大抵の場合そのチームの設定目標の基準となる。なぜなら、チームのパフォーマンスの責任をもつリーダーは、自分が実現可能だと思えない目標には基本的にコミット出来ないからである。私は自分の未経験の領域までPDCA精度をあげなければ実現できないような過剰な目標にコミットするリーダーには問題があると考えている。この種のリーダーの問題は、①単純に無責任であるということと、②実現の方法論を持たないため多くの場合部下への接し方が精神論になり、ある程度を越えるとパワハラとも受け止められかねないマネジメントになりがちになることである。

そして、リーダーの経験値が他のメンバーの経験値より低く、チームの最高到達点があるメンバーの最高到達点よりも低く設定されてしまうと、そのチームはメンバー全員のパフォーマンスをフルに引き出すことが出来なくなる。より高みを知っているメンバーは、目標設定が低い職場環境を「緩い職場」「楽な職場」と認識し、100%のパフォーマンスを発揮しなくてもハイパフォーマーとして評価されてしまうのである。これは、チームマネジメントの視点からは無駄が発生してしまっていることを意味し、健全な状態とは言えなくなる。

このように考えると、ある組織というのはリーダーに最も豊富な経験があり、そのリーダーが過去に経験した最高レベルの業務精度水準が、最終的なチームの基準となるということである。

PDCAサイクルの回転状況を観察し、到達可能点に達しているか否かの見極めが出来る

リーダーがチームが到達可能な最高到達点を目標として提示した後は、いよいよチームがその目標に向かって日々の業務をするわけであるが、その段階で重要なのは、正しく現時点の改善度合い、業務精度のレベルを見極め、それが目指すべき目標を頂上としたときに、何合目にいるのかを見極めるという事である。

 この見極めは当然、その山の頂上まで登ったことのある人でなければ判断できず、それは前段の議論のとおりできるだけチームリーダーが担うべき役割であるといえる。別に登山が趣味なわけでもないので、登山を例に話すのが適切かどうかわからないが、一つの山を登る行程というのは、必ずしも均等な困難度合いで、一本調子で頂上に向かって進んでいけるわけではないであろう。勾配が急になったり、足場が岩場で登りにくくなったりと、状況が変化し、進みがスローダウンすることもあるであろう。おそらく、登山のガイドというのは、顧客の体力、登山経験に応じて、頂上に到達するための適切なペースや休憩の取り方など、全体のルートの状況を、自己の経験に照らしてコントロールしていく仕事であるはずである。

 PDCAのマネジメントにおいても全く同じことがいえる。まずビジネスのPDCA、改善活動というのは一本調子に進むことはまずない。もしそのような状況で改善が進むとすれば、それはよほど改善の余地が大きな状況であったか、そのチームがすばらしく優秀かのどちらかである。

PDCAを進めるにあたって重要なのは、いま改善が停滞してしまっているのが、頂上に到達してしまい先に進む道がそもそもないのか、単純に傾斜が急になり進むことが困難であるのかの判断を正しくすることである。そのためには当然、その山の頂上の景色を知っていることは必須であるし、その景色と、今いる地点の景色を見れば、今自分が行程のどの地点におり、進むことが可能なのかどうかを正しく判断できる必要がある。

上述した、私のクライアント企業のように、私が可能と判断して提案した改善提案に対して、実現できなかったと途中でやめてしまうパターンは、多くの場合、改善の停滞ポイントを、改善の限界ポイントであると誤った判断をして、途中であきらめてしまうというパターンである。

もちろん、上に行けば行くほどどんどん傾斜がきつくなるような厳しい山もあるにはあるが、私の経験上その停滞ポイントの問題を解決するブレイクスルーが実現できれば、結構その先に改善が再加速するようなことも珍しくなく、小さな困難に直面してあきらめない姿勢は重要であるし、それを正しく判断できるリーダーの役割は特に重要であるといえる。

PDCA精度の到達可能点と現状のGAPを認識し、その差分を改善する期間を正しい目標設定としてチームに提示する

仕事の目標というのは、Goal設定と同時に、それをいつまでに実現するのかというスケジュールの設定も当然重要である。先に使った登山の例でいえば、下山するまでのスケジュール設定が正しくできなければ、必要な装備や、持っていく食料の量などを決められないからである。雪山で軽く日帰りのつもりで登りだし、何とか頂上まではいけたが、暗くなってしまった。それなのに、日帰りのつもりであったのでテントも食料も持っていないなどということになれば、それは完全に遭難である。

ビジネスにおいては、さすがに遭難して、命にかかわることはないかもしれない。しかし、ビジネスには予算であったり、そのプロジェクトに使えるリソースであったりなど、PDCAによる改善活動において実現されるべき目標に対して与えられる所与の条件は当然存在し、それが実現しないとプロジェクトがクローズになってしまったり、最悪の場合会社が立ち行かなくなってしまったりする。

このため、PDCAをマネジメントするリーダーには、到達する目標と、現状のGAPを正しく測定し、そのGAPの大きさと、そのGAPを埋めるために必要な工程をメンバーに提示することで、PDCAのプロセスを正しくマネジメントしていく必要がある。

もちろん、リーダーも人間であるし、ビジネスというのは刻々と状況が変化し、必ずしも過去の経験値通りにPDCAが進まないこともあるので、最初に提示した工程表が完ぺきに正確である必要はないし、それを求められても実現できる人はおそらくいない。しかし、その工程表をみて、論理的に考えて到底実現不可能のなものであるとメンバーに思わせてしまったり、逆にめちゃくちゃ楽な工程であるととらえられたりしてはいけない。どちらの場合もチームメンバーのモチベーションにかかわり、チームのポテンシャルを十分に引き出せなくなる可能性が大きい。

リーダーは、Goalと現在地の正しいGAPの測定を行い、その工程とスケジュールをチームに提示し、正しいスピードでPDCAが回せられる環境を作らなければならない。

「徹底力」というのは精神論ではない

ここまで見てきてわかるのは、徹底力というのは、何も気合の話、精神論ではない。正しいリーダーシップのもと、目の前に立ちはだかる困難を解決できるものと信じて立ち向かい、停滞を乗り越えて問題を解決していくという継続的なPDCAの回転によって実現するものである。私が見てきた多くの事例において、事業がうまくいっていない事例というのは、このPDCAを粘り強く回転させ続けることができていないことが大部分を占めると考えている。わかりやすくいうと、「みんな(競合も)このくらいやっていると聞いたので、このレベルまで改善しました」というスタンスで良いと思ってしまっている姿勢が問題なのである。

当然、競合の過去の情報を参考にすれば、その競合が正しくPDCAを回していれば、現在の彼らはその先を言っているわけだし、そもそも周りと同じように普通にやっていては、その事業が対競合比で差別化ポイントを作り、高い利益を上げることなどできるわけがない。要は、「普通」では利益など出せないのである。三木谷さんが言っていた「徹底力」というのは、チームが正しい経験値を積み、限界値をどれだけ高められるかを一歩ずつ進むプロセスのことを言っているのだと思う。そして、そのプロセスを継続的にマネジメントすることが出来さえすれば、一時的に成長スピード、改善スピードが落ちたとしても、最終的には競合が到達できないような高みにまでたどり着けるという話なのだと思う。