普通じゃないことを追及する

ChatGPTの1年の進化に驚愕する

ChatGPT4を使っていて、1年前のChatGPT3との能力の違いに正直圧倒されているが、その能力値が上がれば上がるほど、考えるのは、これから自分がやる、人間がやる仕事というのは何が残るのであろうということである。以前にも似たようなことを書いたが、私個人はFIRE(Financial Independence, Retire Early)というものには全く興味がなく、仕事以上に面白い趣味もないので、少なくても70歳くらいまで、あと20年くらい働きたいと思っていて、ChatGPTが出始めたときは、その能力に驚きつつも、20年くらいは自分の仕事は残っているであろうと気軽に考えていた。

しかし、この1年くらいのChatGPTの進化を見ていると、だんだんその自信が揺らいできて、70歳まで働く気満々でも、気が付いたら自分が付加価値が出せる仕事など残っていないのではないかと思い始めるようになった。

シンギュラリティという言葉がある。日本語でいえば、技術的特異点と訳されるそうだが、分かりやすくというとAIが現在のLLMのように機械学習を自己フィードバックの中で行い知能レベルが向上していく中で、AIが人間の知能を超える瞬間を表現する言葉である。これがいつ来るのかというのが科学者の間で話題になったりしているわけである。

囲碁におけるシンギュラリティ

この話に関わり先日聞いて驚いた話が、囲碁の話である。脳科学者の茂木健一郎さんが、現在の日本囲碁界で最強の一人と考えられ、近年に日本の棋士が勝つことが出来なかった国際棋戦においても20年近くぶりに優勝したという、おそらく現在世界でもトップクラスの実力を持つ一力遼四冠の話として語っていた内容である。

もともと、囲碁というのは将棋やチェスト比較しても一手一手の理論上の選択肢の数が膨大に多く、単純な先読み的な打ち手予想の選択肢が莫大になってしまうという性質から、単純な最善手をどれだけ先読みして見つけ出すのかというそれ以前のAIのプログラムの開発のロジックでは人間に勝つAIを作ることは不可能であろうと考えられてきた。ところがGoogleが買収したDeepMind社が開発したAlphaGoというAIが、それまで最善手探索型のプログラムではなく、現在のLLMをはじめとする多くのAIの基本的な原理であるニューラルネットワークを活用した機械学習型の原理を用いて登場したことで状況が一変する。このAIが、当時世界トップクラスの棋士と考えられていた中国や韓国の棋士に勝ってしまったのである。2017年前後の話なので、今からわずか8年くらい前の出来事である。この衝撃は大きく、このAlphaGoの成功が切っ掛けとなり、現在につながるAI開発の一大ブームが巻き起こったといっても過言ではない(少なくても切っ掛けの一つではある)。

ということで、囲碁とAIの関係というのはAIの発展において密接な関係性があったりするのであるが、驚くべきはその8年後の現代における両者の関係についてである。現代のトップ棋士の一人である一力四冠も当然勉強・研究のためにAIは活用しているそうなのだが、最近はトップクラスの棋士でもAIに勝つのはほぼ不可能というレベルにまで差がついてしまったそうである。まだそれだけであれば、その可能性はあるだろうなと思って聞いていたのだが、その次の言葉に本当に驚いたのである。なんと、トップクラスの棋士が、AIが打つ手を後付けで分析しても、なぜAIがその手をその時点で最善手として選択したのか自体が理解できないところまで差がついてしまっているということである。この話が意味しているところが何かといえば、囲碁という非常に限定されたルールの世界のこととはいえ、囲碁の世界においては、一般社会においていつ来るかと議論されているシンギュラリティがすでに来てしまっており、今のトップ棋士たちはポスト・シンギュラリティの世界を生きているということになるわけである。

このことから分かるのは、囲碁のようなルールの制限がある世界においては、AIが持つ膨大な知識量(データ量)と、瞬間的な情報処理能力を組み合わせると、人間には到底及びもつかない思考能力差になってしまうということであろう。

「普通じゃない」はAIに対抗するキーワード?

この話を聞いて、最初の話に戻ると、5年後、10年後に今のLLMの進化スピードを考えると、私たち人間に残される仕事というのは何があるのだろうと考えざるを得ないし、大きな不安を感じるわけである。囲碁の世界でAIが人間と対等レベルの知性を持つところから、明らかに人間の能力を超越してしまうまで、事実として10年とかかっていないのであるから、今の仕事の領域においても、一旦AIに人間の能力が並ばれてしまったら、普通に考えればその分野におけるAIの能力は10年以内に人間を遥かに超えてしまうと考えるほうが自然であるといえる。

一方で現実の世界で様々なクライアントの事業改善や、自分で作ろうと思っている事業構想などをしながらいろいろ考えるわけであるが、最近自分の中のキーワードで重要だと思っていることがある。それは、

「普通じゃない」「頭がおかしい」

というような言葉である。一般的に、これらのキーワードは誉め言葉には使われず、否定的なキーワードとして用いられることが多い。分かりやすい例として自分が言われた叱責の文句として、上司から「普通はこんなことしないだろう。常識的に考えてあり得ない。」みたいなことを言われたことがないだろうか?はっきりと自分で覚えてはいないが、私も20年以上に及ぶ管理職生活の中で、ほぼ間違いなく、このような発言を自分の部下にしたことがあると思う(もちろん、言われたこともたくさんがるが)。

特に日本の社会、教育においては、「他人に迷惑をかけない」ことを美徳と考え、「赤信号みんなで渡れば怖くない」ではないが、物事の本質を考えて「正しい」「正しくない」を判断しているのではなく、「周りがこうしているから、私もこうしておいた方が安全」みたいな判断基準で物事を判断していることが多い。

コロナ禍のアクリルパーテーション問題

例えば、2020年頃からの新型コロナウィルスの蔓延時の対策などでも、そのような話は顕著であった。よく、同調圧力という言葉がテレビなどでも聞かれたが、例えば、よく飲食店やオフィスなどに設置されていた飛沫感染防止用のアクリルパネルは、日本国内においては2022年くらいまでかなり長く設置されていることが一般的であった。しかし、あれは結構早い段階で、特に狭いスペースにおいては飛沫感染防止効果よりも、空気の対流・換気の妨げになるため、むしろデメリットの方が大きいことは科学的に分かっていたそうである。しかし、多くの企業や飲食店が設置を継続していたと記憶している。おそらく、やめてしまうと感染対策に後ろ向きであると見られてしまう恐れがあると考えた人が多くおり、そのような社会的な雰囲気から、アクリルパーテーションはデメリットが大きいという話自体が世の中に流れてこなかったし、そのような情報もないため、多くの日本人は3年近くもアクリルパーテーションに囲まれて仕事をしたり、食事をしていたわけである。

この話を聞いて私が感じたのは、日本における「普通」であることの意味のない価値の高さの問題である。最近の問題として耳にして、一部の自治体では対策条例のようなものも制定されるようになってきているビジネスシーンにおけるカスタマーハラスメントとか、よく学校のはなしで耳にするモンスターピアレントの話はその代表例であろう。もちろんこのような問題はお店や学校などのサービスの提供側の何らかの落ち度に端を発している可能性は否定できない。しかし、これに対する過剰なリアクションがカスハラやモンシュターピアレントを生み出してしまう。その前提になっているのは、おそらくその顧客や両親の持つその人の「普通」と店舗や学校の対応に対する「ズレ」が大きいということが多いのではないだろうか?その「ズレ」が大きいほど、顧客側の怒りが大きくなり、問題化するのだと思う。しかし、おそらくそのお店や学校が、問題となっている顧客や両親以外とはそれなりに上手くコミュニケーションがとられており、スムーズに運営されている場合、おそらくクレームをしている人の「普通」の方が常識から大きく逸脱している可能性がかなり高いのだと思う。つまり、「普通」という概念は個人の主観的な事項である。

さらに問題なのは、前述の新型コロナウィルスの例を考えると「普通」と「論理的に正しい」ということが必ずしも一致しないことである。多くの場合、「普通=論理的に正しい」と考えがちであるが、「普通」というのは論理的に導き出された答えよりも社会的環境要因や、歴史とか物事の経緯のような話にかなり影響されてしまうのだと思う。新型コロナウィルスのアクリルパーテーションの場合の私なりの勝手な解釈は、こんな話なのではないかと想像する。アクリルパーテーションの設置の有無の議論は、論理的な正否とはいっても、ある条件下においてどちらが感染する可能性が高いかどうかの確率の高低の議論である。この確率の高低というのが厄介で、論理的には、どちらの選択肢をとっても、運が悪ければ感染してしまうことを意味する。このようなケースの場合、前述のカスハラの顧客やモンスターピアレントがいる社会において、サービスの提供者はどのような選択をすることが安全と感じるだろうか?私は、多くの場合、アクリルパーテーションを設置することであると思う。なぜなら、本当に正しい対策かどうかは別にして、外形的にアクリルパーテーションを設置していた方が、感染対策に配慮しているように見せられるからである。

同様な理由で、政府もアクリルパーテーションを撤去したほうがよいと言えなかったのではないか?なぜなら、新型コロナウィルスは思い返せば、空気の乾燥度合いであるとか、季節変動による部屋の換気度合いなどに左右されて放っておいても、感染者数に波があるものであった。しかし、当時の報道を見ると毎日新規感染者が公表され、その増減に皆が一喜一憂し、感染者が増えた時に政府に何らかの失策があれば多くのマスコミやSNSを通じて一般市民が政府を糾弾した。そうすると、政府としてはリスクが高すぎて、実はアクリルパーテーションはとったほうが良いですとは言えなかったのではないか。もし、その情報を開示したタイミングが悪く、撤去が進んだタイミングで感染者が増えてしまったりすると、パーテーションをとった判断が早すぎたので政府の失策だと多くの人に言われてしまったりするわけである。

私がSNSを個人的に見なかったり、好きでない理由は実はこの辺にある。一億総発信者の現代において、誰が決めたかよくわからない「普通」から外れることのリスクが著しく高くなってしまっているように感じるからである。特に、新型コロナウィルスの時に私が感じた日本社会の風土というか、雰囲気というのは、人に迷惑をかけないという価値観のせいなのか、この「普通」に対しての逸脱に厳しい世の中になってしまっているように感じる。

「普通」なことはAIができること

AIの話から始めて、日本社会の「普通」に対する議論と、議論が二転三転してしまったが、ここから本題の「普通じゃない」ことの重要性に話を戻したい。ここまで述べてきたように、日本社会において「普通じゃない」ことは一般的には「善」とはみなされにくいことは皆さんもご理解いただけたと思う。さらに、問題なのは「普通」=「正しい」わけでもないこともご理解いただけただろう。

一方、AIというのは、世の中に流通している情報を大量にとってきて、どう判断しているのかはちょっと分からないが、多く言われていることや、権威がある情報源の意見の総和から、正しいと思われる意見を答えとして我々に提供しているように見える。とすれば、今後AIがどんどん進化していけば、おそらく世の中の多くの人が「普通だ」「常識的だ」と考えることは、世の中の情報をかき集めればAIが答えを出せるようになってしまうのではないだろうか?そのように考えれば、人間の知的労働のうち、これまで正しいとされてきた「普通はこうやる」「常識的にはこう考えるべきだ」ということを正しく、効率的に実行するという業務は普通に考えればAIに置き換えられてしまう可能性が高いように思う。囲碁というのは、ルールが決められているという意味で「普通」=「正しい」=「勝ちにつながる選択」が一直線に連動する世界で、そのような世界においては、人間はAIの足元にも及ばない存在になってしまうことは残念ながら証明されてしまったわけだからである。

と考えれば、人間に残される仕事というのは、その逆を行くものでなければいけない。つまり、

「普通じゃない」=「正しいかどうかが分からない」

ことに人間がやるべきことは残されていくような気がしてならない。最近私が自分で考えているビジネスというのは、この「普通じゃない」をどこまで追及できるかというのをポイントに良し悪しを判断するようにしている。たとえば、デジタルマーケティングの世界でいえば、サービス提供者が推奨する方法通りにAIに運用を任せる世界だけになってしまったら、おそらく企業ごとの広告運用のパフォーマンスには差が生まれることはほとんどないか、機械学習データ量が大きい規模の大きな会社がより効率の良い運用ができるかのどちらかの世界にしか行きつかないと思う。そのように考えれば、2025年に新しく始めるビジネスは、間違いなく他社が普通にやることをやっているのでは上手くいかないし、すでに大手企業がやっていることを真似しても中長期的に勝てないことは確定的であるようにしか思えない。

では、どうすれば良いのか。キーワードは「普通じゃない」であるとしか思えない。多くの日本人は「普通じゃない」と怒られた経験が少なからずあるであろう。このため、「普通じゃないことをしろ」と言われると、リスクが高い選択をすることのように受け止められる気がする。しかし、ここまで考えてきたことが論理的に正しいとするのであれば、これからの仕事、とくにホワイトカラーの仕事において「普通である」ことの方が相当リスクが高いと考えざるを得ないということになるのではないだろうか?

私個人が恵まれていたのは、両親が私たち兄弟に「普通」であることを全く強要しなかったので、帰国子女である家内に、「よく日本でこんな人間が育ったね」と言われるくらい、普通でないことにあまり違和感を感じないで50年近く生きてこられたことである。ただし、そのおかげて、普通に重要だと考えられていることが出来ずに、学生時代も、社会人になっても怒られること、コンフリクトが起こることもなかったとは言えない。今更人間としてのコアな性格や価値観を変えることもできないので、自分を変える試みをするつもりもない。しかし、結果がどうなるのかは自分の人生のこの先など私自身が知る由もないが、意外と悪くないのかもしれないと思えたりするわけである。おそらく、これから10年くらいのAIの進化は、産業革命とかと同じくらい凄いインパクトのある社会的変化が巻き起こるような気がする。2000年前後にインターネットが普及し始めたときも、同じような議論があり、もちろんそれなりに大きな変化はあった気がする。ただ、その変化とは、意外とそれまでオフラインにあったものが、オンラインに置き換わって効率化されたという話が多く、そもそも人間のホワイトカラーがやっていた仕事がネットのツールに置き換わってしまったみたいなドラスティックな変化はそれほど起こらなかった。もしかしたら、一番影響を受けたのは、広告メディアの出向額のシェアがそれまで存在しなかったネットメディアに大きく置き換わったというように、私が生きてきたマーケティングの世界かもしれない。しかし、統計データを見ても、以前より減ったとはいえ、4マス媒体と呼ばれたメディアは今のところは何とか生き残っており、それなりのお金を稼いでいる。

しかし、これからの10年間くらいで起こるAIと人間の役割分担の変化のインパクトは、おそらくこの25年くらいのインターネット普及以来の変化とは比べ物にならないくらい大きなものになる気がする。

そんな恐ろしそうな未来に老いていく肉体を使わずに、机に座って仕事をするための一つの重要なキーワードは「普通じゃない」ということなのではないかと思う今日この頃である。